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    歴史

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    創作物の世界ではお馴染みの「エース専用機」や「先行試験機」といった機体は、現実には存在するのでしょうか。明確にそうとは言い切れないものの、それっぽい軍用機ならば、実はいくつか存在しています。

    創作物だけじゃない「エース専用機」

    アニメマンガ、特撮などの創作物において、主人公ライバルが搭乗するロボット戦闘機が、試作型で数機しか存在しない少数生産機だったり、現地カスタムのワンオフ機だったりすることはままあります。こういった特別すぎる機体は、現実に存在するのでしょうか。実はそれっぽい機体ならば、過去に存在していました。

    主翼が3層の少数生産機「ソッピース トライプレーン」

    イギリスのソッピース社が開発を担当し、第1次世界大戦中の1916(大正5)年12月に実戦投入された「トライプレーン」は、主翼が3層になった三葉機という珍しい構造をしていました。3枚の翼を有しているため、翼面積が大きく、優れた操縦性と高い上昇力を武器に当時のドイツ軍機を圧倒しました。

    しかし、その構造の複雑さなどの影響で、生産数は150機に届かなかったといわれています。ワンオフ機というわけにはいきませんが、かなり少ない数といえます。そして、配備されても問題が頻発しました。デリケートな部分が多く、現場での修理は困難を極め、些細な故障で後方に下げられることも多かったといわれています。

    ただ、降下性能以外は、当時のドイツ軍の主力戦闘機であったアルバトロス D.IIIを圧倒しており、イギリス海軍航空隊向けに、重要な戦場へ配備されました。

    特にこの戦闘機の名声を高めたのが、海軍第10飛行隊のB小隊で、通称「ブラック小隊」とよばれるようになるカナダ人で構成された隊でした。同小隊はその名の通り、尾翼とカウリングを黒く塗っており、3か月で87機のドイツ機を撃墜したといわれています。黒塗りというところが、いかにもエース部隊っぽい感じですね。

    1917(大正6)年6月にはより信頼性が高く、重武装の「ソッピース キャメル」が配備されるようになり、「トライプレーン」の前線での運用は短命に終わりますが、その短い期間に大きく存在感を示しました。

    エースパイロット独自のカラーリングで相手を威圧した「フォッカー Dr.I」

    「ソッピース トライプレーン」の空戦能力に大きな影響を受けたドイツ軍が、1917年(大正6)に開発した戦闘機が「フォッカー Dr.I」です。見た目は三葉機なのですが、実は独自の改良が加えられています。主脚間に板を渡して4枚目の翼とした、四葉機に近い構造をしているのです。

    そのため、上昇力と運動性がかなり高く、抜群の空戦性能を発揮しました。しかし操縦に関しては、挙動をコントロールするのが難しく、ベテランパイロットでないと手に負えないほどでした。創作物によく見られる、ピーキーな機体だけど能力の高いパイロットが使えば無敵の強さを発揮する、というタイプです。

    そのデリケートすぎる構造のため、エース向けに配備されたものが多く、生産数は300機程度に過ぎませんでした。

    同機の搭乗者で一番有名なのは、「レッドバロン」の愛称で知られるドイツ軍の撃墜王、マンフレート・フォン・リヒトホーヘン男爵でしょう。なぜ愛称に「赤」がつくかというと、彼の乗機が赤く塗装されていたからです。きっと通常機の3倍速かったことでしょう。

    ちなみに、のちにナチス・ドイツで空軍司令官になるヘルマン・ゲーリングも同機に搭乗しており、白くカラーリングされていたそう。実は各エースが愛機にパーソナルカラーを付けるというネタは、この「フォッカー Dr.I」をはじめとした第1次世界大戦中のパイロットにその源流があります。

    大型機関砲を抱えて飛ぶ怪鳥「Ju87 G-2」

    第2次世界大戦ドイツの、「急降下爆撃機」の代名詞ともいえるJu87スツーカ」。その数あるタイプのなかでも最末期に開発された「Ju87 G-2」は、両翼に37mm砲とガンポッドを据え付けていたことから「大砲鳥(カノーネンフォーゲル)」と愛称された機体です。おもな任務は敵の車両、特に戦車や装甲車に向かって、装甲が薄い上部を狙い砲弾を叩きこんで撃破することでした。

    重戦車すら一撃で破壊できる攻撃力を備えていましたが、本来、急降下爆撃機であるJu87に似つかわしくないほど大型の砲を装備したことで、発射時の反動などにより操作性は非常にピーキーだったといわれています。

    しかも、各戦線において制空権の確保が困難になって以降の機体なので、重い荷物を背負って戦場を飛ぶだけでもかなりのリスクがあるうえに、携行弾数も、1門で12発、合計24発しかなく、少しでも弾を無駄にしないよう、目標にかなり接近する必要もありました。

    そういった困難な要素が山積しているにも関わらず、凄まじい数のソ連軍車両を撃破したのが、「ソ連人民最大の敵」とまでいわれたドイツ空軍のハンス=ウルリッヒ・ルーデルです。

    タイプを合わせ6500機以上生産されたJu87のなかで、G-2の生産数は多くても300機に満たないそうです。かなり特殊な機体だったといえるでしょう。しかも、1943(昭和18)年7月に始まったクルスクの戦いで、同機は初めて投入されましたが、そのときに満足に動いていたのはルーデル機だけだったといわれています。まさにワンオフ機の状態だったわけです。

    スーパー兵器のようなワンオフ機は、現実には存在しませんが、熟練者などに優先的に配備された少数生産機ならば、このように歴史上に存在しています。

    ただ、戦争はひとりやふたりの力で局地的な優勢を得られたとしても、大局で満足な兵力が確保できなくては、いずれ覆されてしまいます。やはり万人が扱いやすい、生産性も信頼性も高い量産機を数多くそろえた方が、効率のいいことに変わりはありません。やはり「戦いは数だよ!」ということでしょうか。

    WW1期イギリス軍の単座戦闘機、ソッピース トライプレーン(画像:帝国戦争博物館/IWM)。


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    地球上で一番危険な場所

    地球上で一番危険だった場所を古生物学者が特定 /iStock

     もしタイムトラベルができたとしよう。だが、ある時期にある場所にいくのは絶対にやめておいたほうがいい。生きて帰ってくることは困難だろう。

     北アフリカモロッコアルジェリアの国境付近のサハラと呼ばれている地域は、現在も世界最大の砂漠が広がる過酷なところだが、1億年前は更に人間にとって過酷な環境にあったようだ。

     約1億4500万年~6600万年前の白亜紀、そこには巨大な恐竜や空飛ぶワニのような獰猛なハンターがうろついており、古生物学者によれば、地球の歴史の中でもっとも危険な場所だったという。

     『ZooKeys』(4月21日付)に掲載された研究では、「ケムケム層群(Kem Kem Group)」で収集された数十年分の調査記録や、世界各地の博物館に所蔵されている化石記録を比較。

     古生物学者いわく、「ほぼ1世紀におよぶサハラの脊椎動物化石に関する最も包括的な研究」で、その結果は、当時この辺りが恐ろしい肉食動物だらけのヤバい場所だったことを匂わせている。

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    大型肉食動物がやたらと多いケムケム層群

     モロッコアルジェリアの国境に沿ったケムケム層群は、化石が大量に発掘されてきたことで知られており、まさに数千万年におよぶ生命の記録が刻まれている地域だ。

     ここでは軟骨魚・硬骨魚・カメ・翼竜・恐竜、さらには植物や生痕(生物が活動した痕跡)といったさまざまな化石が発見されており、北アフリカの当時の生物多様性をうかがい知るには最高の場所となっている。

     だが、特に目を引くのは、この地層からは大型の肉食動物がやたらと多く発見されていることだ。

    2_e6

    image by:Ibrahim et al., 2020, Zookeys

    Geology and paleontology of the Upper Cretaceous Kem Kem Group of eastern Morocco
    https://zookeys.pensoft.net/article/47517/element/2/118//

    巨大な肉食恐竜、ワニのような翼竜、ノコギリの口を持つエイ

     白亜紀、ケムケム一帯には豊かな河川が流れており、さまざまな水生動物や陸生動物が育まれていた。

     動物が集まれば、当然それを獲物として狙う生き物も集まってくる。ここでは記録上最大級の肉食恐竜の化石が少なくとも3体は発見されているのである。

     たとえば全長8メートルのカルカロドントサウルス、それに匹敵する大きさのデルタドロメウス、ほとんど空飛ぶワニのようなの翼竜など、危険極まりない連中がうろついていたということだ。


    Nizar Ibrahim: Lost Giant of the Sahara | Nat Geo Live

    食われる連中も負けず劣らずのスゴさ

     さらに、そうした恐竜に食われていた魚も負けず劣らずのスゴさで、まるで化物のような大きさだった。

     たとえば今では生きている化石と呼ばれるようになったシーラカンスは、現生種の4、5倍も大きかった。オンコプリスティスという淡水のエイは、口の部分がノコギリ状に突き出ているという異形である。

     「地球の歴史上、もっとも危険な場所だったと言えるでしょう。もし、タイムトラベルができるようになったとして、うっかりそこに行ってしまえば、すぐに殺されてしまいますよ」と、研究チームの1人はコメントしている。

    References:port. / iflscience/ written by hiroching / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52290398.html
     

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    地球の歴史上、最も危険だった時と場所が明らかに。約1億年前の北アフリカには肉食恐竜がウヨウヨ


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    Image: Mugendai(無限大)

    粋でいなせで涙にゃもろい。

    時代劇などでお馴染みの、江戸時代。長く鎖国が続き、閉ざされたイメージもありますが、実際その頃の生活ってどうだったのでしょうか。

    IBMが運営するWebメディアMugendai(無限大)に、江戸時代プロフェッショナルが登場。意外に自由だったという生活や、いかにも日本人らしいテクノロジーの発展が解説されていました。

    趣味の集まりが盛んだった江戸時代。世界の最先端製品を改良したイノベーション

    インタビューに登場していたのは、法政大学総長田中優子さん東京六大学史上初の女性総長として働きつつ、江戸時代に関する著書をいくつもお持ちです。

    田中さんがまず紹介していたのが、江戸時代に存在した「」という組織。これは、現代の「サロン」とでもいうべきもので、絵画や俳諧、蘭学などを学ぶため身分を超えて集まった集団だそう。

    「連」では、それぞれ自分の好きな名前を名乗るのが通例で、特に「家」に縛られがちな武士はその傾向が強かったといいます。お侍さんのイメージ、ちょっと変わりそうです。

    Image: Mugendai(無限大)

    もう一つギズ的に気になるのは、やはりテクノロジー面でしょう。鎖国状態が続いた江戸時代で、人々はどうやって技術を吸収していったのでしょうか。

    実際、貿易を禁止していた江戸時代でも、時計やレンズなどさまざまな製品が輸入されていました。田中さんはこの目的には裏があると指摘。「当時の幕府が目指していたのは輸入ではなく国産化」だといい、以下のように語っていますよ。

    鉄砲がそうでした。ポルトガルは日本に大量に売りつけるつもりでしたが、高度な刀鍛冶の技術があった日本は、自分で作ってしまったのです。

    国産化に当たっては、輸入品を日本人の生活や好みに合わせて改良しました。絶えず海外の新しい産品や技術を取り入れては日本仕様へと工夫し改良していたので、国内マーケットは大いに活性化していきました。

    世界から最先端の製品を少しだけ仕入れ、改良して国産化。何だか現代とすごく似ている気がしますね。

    他にも、世界史から見た江戸時代の始まりから明治維新までの詳しい解説など、歴史好き必見のインタビューの続きは、Mugendai(無限大)よりお楽しみください。

    Source: Mugendai(無限大)



    (出典 news.nicovideo.jp)


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    歴史を勉強しようと思って本を読んでも、次の日には何を学んだのかを忘れてしまっていることはありませんか。誰でも簡単に勉強したことが記憶に残り、使える知識としてアウトプットできるようになる歴史学習法をご紹介します。

    ■忘れない勉強法「脱・教養コンプレックス! 記憶にはコツがある」

    最初にクイズです。「明治維新の立役者として思い浮かぶ人物を1人あげてください」――。

    すると、「坂本龍馬」と答える人がけっこう多いのではないでしょうか。しかし、維新において龍馬がどんな役割を果たしたのか、その功績はほとんどわかっていないのが、現在の歴史学者の共通認識です。実際、あらゆる史料を調べても、「維新の三傑」と呼ばれる西郷隆盛大久保利通木戸孝允の3人の誰ひとりとして、明治政府樹立後に坂本龍馬に言及していません。

    龍馬が薩長同盟の仲立ちをし、明治維新を成功に導いた功績者であれば、ひと言くらいコメントしていてもいいはず。三傑は薩長出身だから、土佐出身の龍馬を褒めたくなかったという説もありますが、それならば同じ土佐出身の板垣退助が何か言葉を残しているはずですが、こちらも記録がないのです。

    さらにいうと、「維新の十傑」と呼ばれる10人の中にも龍馬の名前は入っていません。これはつまり何を意味するのか。坂本龍馬は明治維新ではたいした役割を果たしていなかったということです。ではなぜ龍馬がこれほど有名なのかといえば、司馬遼太郎さんが小説『竜馬がゆく』を書いたからです。

    歴史を学ぶうえで、ここが最も重要なポイントです。歴史はファクト(事実)とフィクション(作り事)を峻別しなければ、何の意味もありません。ある有名な時代小説家も「ファクトを描いても本が売れない」とおっしゃっていました。時代小説エンターテインメントですから、売れるためにおもしろおかしく書かれている。それを読んで歴史を学んだ気になってはいけません。歴史に興味を持つ入り口としてはいいのですが、本当の歴史ではありません。

    そもそも歴史を学ぶ意義は何か。理由は非常にシンプルです。未来に備えるためです。過去の教訓に学び、未来に備える。悲しいことに、人間にとって教材は過去の歴史しかないのです。これが歴史を学ぶすべての意味です。たとえば、南海トラフなど巨大地震の発生が懸念されていますが、東日本大震災のことを勉強した人と、勉強しなかった人では、大地震が起こったときに、どちらが助かりやすいか。自明ですよね。

    ■なぜ仏教が伝来したか なぜ黒船が来航したか

    とはいえ、歴史学者の本をただ読めばいいというものではありません。歴史には学び方があります。これは歴史に限りませんが、知識だけを蓄積しても、本当の力にはならない。自分自身で考えて応用できる力が何より大事です。だから本を読むときには、考えながら、自分のものとして腹落ちさせること。腹に落ちたら、その情報を生きたものとして使えるわけです。腹落ちさせるためには、読んで、納得できないことは自分で文献などを調べるしかありません。

    たとえば、仏教の伝来。教科書では538年に百済から伝わったと習います。この知識だけがあっても何の役にも立たない。なぜ百済は仏教を日本に伝えたのかと疑問を持つことが大事です。実は仏教というのは当時、最新の「技術体系」だったのです。仏教を広めるには寺院の建築や法具、お経、衣服などをつくり、僧侶も育成しなければならない。百済がそのような貴重なものをなぜわざわざ日本に教えてくれたのか。

    当時の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が争っていました。百済は両国に激しく攻められていた。538年は新羅に侵攻されて、まさに国が存続の危機にあり、日本に兵士の支援を求めたのです。その見返りとして最先端の技術体系を教えた。ここまで踏み込むことで、仏教伝来の意味が理解でき、納得できるのです。

    ■アウトプットできるような歴史の学び方がある

    この「なぜ?」を突きつめていく。腹落ちするまで「なぜ・なぜ・なぜ?」と芋づる式につなげていく。そうすると1つの物語になります。ストーリーになれば記憶に定着し、忘れません。年号を漫然と覚えるだけでは、何も頭に入ってこないし、使える知識にならない。アウトプットできるような歴史の学び方があるのです。

    仏教伝来もそうですが、「日本史」というのは単独では存在しません。必ず「世界」とのつながりがあります。ですから、日本史を学ぶには同時に世界史セットで勉強するのが大切なポイントです。

    米国人のペリーが黒船で日本に来航したのは1853年です。教科書では捕鯨船の燃料や食料などの補給がその目的だったと習います。しかし、その頃の日本は江戸時代で200年超も鎖国をしていた。そこになぜ突然やって来たのか。当時の米国は中国市場をめぐって英国と争っていました。自国の商品を売るためです。競争力を高めるために米国は大西洋・インド洋経由ではなく、中国に最短距離で行くために太平洋航路を開く必要があった。日本に立ち寄って物資を補給し、上海や広東に行くのが最も便利で早かったので、日本に開国を迫ったわけです。

    このように世界史の中で日本を見るときのキーワードになるのが「交易」です。人と人とが交流するのは、商売やバーター取引が基本だからです。交易の観点で考えると、歴史の疑問はほとんど答えが見つかります。

    たとえば、鉄砲の伝来です。鉄砲は1543年に種子島に漂着したポルトガル人が伝えたと教科書で習いますが、そのポルトガル人が乗っていた船は倭寇(海民の共和国)の頭領、王直の所有する船だったことがわかっています。「なぜポルトガル人が倭寇の船に?」と不思議に思いますよね。彼らはキリスト教の宣教師や商人たちで、船でアジアにやって来て、倭寇と遭遇した。

    倭寇はポルトガル人が持っていた鉄砲に目をつけ、日本に売り込もうと目論んだのです。当時の日本は戦国時代ですから、最新の武器を喜んで買うはずだと。そこでポルトガル人に話を持ちかけ、日本に連れて行った。ポルトガル人には日本に鉄砲を売る理由がそれほどなかったし、日本への海路など知りません。鉄砲を伝えたのは、実は倭寇なのです。

    いかがですか。日本史世界史を一緒に、そして「なぜ?」と考えながら学ぶことで腹に落ち、理解が深まることが実感できたのではないでしょうか。歴史の入門書としておすすめの本を別掲しました。参考にしてください。

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    出口 治明(でぐち・はるあき)
    立命館アジア太平洋大学(APU)学長
    1948年三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命に入社。2006年ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立、社長に就任。同社は12年に上場。18年から現職。

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    ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DusanManic


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    「80年前の戦争だから、評価も研究も一段落しているというわけでは決してありません。私の研究の根底にあるのは、果たして史料を読み解く努力は十分になされているだろうか、という問いです。特に特攻隊ということになると、世間的には手放しの賛美だったり全否定だったりともっぱら両極端な見方で終わってしまう。一方、アカデミズムでも思考停止の状態が続いていました。史料に心底向き合っていない現状は、悲しく寂しいものだと思ってきました」

     いまさらなにを、か。よくぞやってくれた、か――軍事史を研究している一ノ瀬俊也さんの新著を一体どう受け止めればいいだろう。毀誉褒貶、悲喜交々。あの戦争から随分経った今でさえ、日本人の心と記憶から引きはがせない特攻隊の真実を追った一冊だ。

    「特攻隊は、当時の指導層が唱えていた一撃講和論の手段のひとつとして計画されたのではないか、という仮説を立てて検証しました。敗色濃厚な時勢で、アメリカに強烈な反撃を加えれば、有利な条件で講和に持ち込めるという議論において、その強烈な一撃になるのが特攻隊による戦果である、というものです。後の歴史を知っている私たちからすると、狂った考え方に映るかもしれませんね。ただ、歴史研究で大事なのは、後の時代からの価値判断ではなく、当時の人々の考え方を知ることです。史料を読めば、軍人たちが妄想に取りつかれたわけでも、あえて誤った道を選んだわけでもないことがわかる。つまり、計画を実行するのに妥当性のあるロジックが確かにあったのです」

     意味があると思われたからこそ実行された。しかし敗戦を知る現代からすれば無謀な作戦に見える。

     この認識のズレが、時に悲劇に、時に喜劇にもなる特攻隊の現実だ。

    「特攻隊という作戦が残酷であったことに異論はありません。本の中で当時の人々の日記や回想を引用しましたが、軍人はもとより国民、メディアも結託して『この人たちが死んでくれればどうにかなる』という考え方があったのは事実です。新聞ラジオは特攻隊の戦果を華々しく報じ、国民も大本営発表を信じて特攻隊の背中を押す。メディアはウケを狙い、また国民が気持ちよくなるような記事を書く。フィクションの世界では美談にされがちですが、飛び立つ前の隊員たちの身の回りの世話をした女学生という存在も、軍部の計算で用意された側面もあった。軍部の立てた特攻隊の論理に日本中が賛同していたわけで、いわば共犯関係だった。特攻隊員の中には強く志願した者もいますし、仕方なく任に就いた人もいます。個々の心情はあれど、俯瞰して見れば、国中が信じ切っていたロジックに付き合わされた人間たちだったと思います」

     敗戦から75年。当時を知る人は数えるほどになり、史料は年を追うごとに散逸する。残された史料を熟読することを重視する一ノ瀬さんにとっては、厳しい状況が続く。

    「私が研究の道を志した30年ほど前でさえ、軍事研究というのはある種のキワモノでしたから(笑)。今回は、既存の史料をあらためて読み直した部分もありますが、ネットオークションにたまたま出ていた特攻隊員の手紙を競り落として入手した新史料もあります。このようなケースはほとんど僥倖で、刻一刻と史料は失われています。率直に、歴史研究の危機と言っていいでしょう。それでも特攻隊研究に一石投じられたかなと思っています。発見されれば嬉しい史料ですか? それはやはり昭和天皇が特攻隊をどう見ていたか、でしょうね。御簾の奥の奥に眠っているという噂だけは聞こえてきますけど(笑)

    いちのせとしや/1971年福岡県生まれ。九州大学大学院比較社会文化研究科博士課程中退。現在は、埼玉大学教養学部教授。『近代日本の徴兵制と社会』『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」』『戦艦武蔵』『皇軍兵士の日常生活』など著書多数。

    (「週刊文春」編集部/週刊文春 2020年3月19日号)

    『特攻隊員の現実(リアル)』(一ノ瀬俊也 著)講談社現代新書


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    紀元前8世紀頃のものと思われる石碑 /Credit: James Osborne
    • トルコ中央の古墳近くで、古代プリュギアを治めた「ミダス王」の死を示す石碑が発見される
    • ミダス王の死に関しては確かな史実がなく、これまで謎とされていた
    • 石碑には、ミダス率いるプリュギアを打ち破ったと思われる「失われた王国」の存在も記されていた

    古代アナトリア(現トルコ)の王国・プリュギアを治めた「ミダス王」という人物を知っていますか?

    ミダス王はギリシア神話や童話にもよく登場しており、『王様の耳はロバの耳』で、耳がロバになってしまったのもこのミダス王です。

    最も有名な逸話は、触れる物をすべて黄金に変える「ミダス・タッチ」でしょう。

    その一方で、ミダス王の最後に関しては確かな史実が残されていません。

    ところが今回、彼の死の真相が記載された石碑が、コンヤ平原(トルコ中央・アナトリア)にある古墳「Türkmen-Karahöyük」で発見されました。

    しかも、石碑には、ミダス王を倒したと思われる「失われた王国」の存在も示唆されていたのです。

    シカゴ大学による研究の報告は、2月20日付けで「uchicago news」に掲載されました。

    ミダス王を倒した「失われた王国」の正体とは?

    石碑が発見されたのは、昨年のことです。

    地元に住む農家の男性から、「古墳近くの運河で、意味不明の文字が彫られた石碑を見つけた」との報告がありました。

    それを受け、シカゴ大学の考古学研究チームが現場に行ってみると、石碑は半分ほど水に浸かった状態にありました。

    コンヤ平原から見た古墳/Credit: Photo courtesy of James Osborne

    石碑を引き上げ後、詳しく分析してみると、記載された文字は古代アナトリア地方で使われた「ルウィ語」と特定されました。

    ルウィ語はインド・ヨーロッパ語族の一つで、紀元前16世紀〜紀元前7世紀までの資料が見つかっています。主に「楔形文字」とアナトリアの「象形文字」を組み合わせて使われていました。

    以前、別の遺跡で発見された「ルウィ語」を示す石碑/Credit: Oriental Institute

    解読の結果、石碑には「戦争の勝利を讃える功績」が記載されていると判明しました。しかも、単なる小国への勝利ではなく、伝説的なミダス王が率いたプリュギアを倒した旨の内容が書かれていたのです。

    プリュギアには「ミダス」という同名の王が複数人いましたが、石碑の年代が紀元前8世紀後半と特定されていることから、ここで言及されているのは、物を黄金に変える「ミダス王」で間違いないとされています。

    神話の中のミダス王/Credit: ja.wikipedia

    そして最も重要な発見は、石碑に、後期ヒッタイト王国を治めた「ハルタプ王」による勝利のメッセージが確認されたことです。

    ヒッタイト王国は前18世紀から前13世紀頃までアナトリア半島で栄華を誇りましたが、外部の敵(海の民ともいわれる)に襲撃された後は衰退し、小国に分かれ、その最後は判然としていません。

    ハルタプ王は、その混乱に満ちた時代のヒッタイトの王だと言われています。

    石碑の解読によると、石碑には「嵐の神々が、かの王(ミダスを指す)を偉大なハルタプに引き渡した」と記載されていました。

    実は、ハルタプ王は以前から「ミダス王を破った人物ではないか」と言われており、今回の発見はそれを裏付ける証拠となりそうです。

    また、ハルタプ王および彼が統治した当時のヒッタイト王国に関する史実がほぼ残っていない点からも、石碑の発見は貴重な情報源となるでしょう。

    研究チームジェームズ・オズボーン氏は「この古墳こそ、ハルタプ王が治めた王国の中心地(首都)であった可能性も高く、古墳内には、その失われた宮殿や記念碑が隠されているかもしれません」と話しています。

    研究チームは、年内に、同地で再び発掘調査を行う予定とのことです。

    火を吐く謎の生き物「貪る者」が描かれた2,800年前の碑文がトルコに出現! その正体とは?


    触れた物を黄金に変える「ミダス王」の死の真相を記した石碑が発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    発見された遺骨/Credit: nature.com
    • スペイン北部の洞窟で、7000年前に虐殺されたグループの遺骨が発見される
    • 彼らは、ヨーロッパ東部から移住してきた一団で、異国民を嫌う土着の住民たちに殺されたものと考えられている

    スペイン北部、ピレネー山脈の山間にある洞窟「エルス・トロクス(Els Trocs)」で、何者かにより虐殺された9体の遺骨が発見されました。

    遺骨は今から7000年ほど前の新石器時代に当たり、ヨーロッパ東部から移住してきたグループのものであることが分かっています。

    彼らは、土着の住民たちに殺害されたと考えられており、死後も激しく殴打された痕が見られることから、古代人の「Xenophobic(外国人嫌い)」を証明していると考えられています。

    オーストリア・ドナウ私立大学による研究は、2月7日付けで「Scientific Reports」に掲載されました。

    「エルス・トロクスの大虐殺」の真相は?

    エルス・トロクスの場所/Credit: nature.com

    発見された遺骨は全部で9つあり、大人が5体、子供が4体(3〜7歳)でした。

    年代測定によると、遺体はすべて紀元前5300年頃のもので、無慈悲に殺害された後に切断されています。

    また、5体の大人の頭蓋骨には致命傷となった矢傷が見られ、大人だけが至近距離で矢を射たれたようです。遺骨は、子供も含め、頭部や腕部、脚部に鈍器による外傷の痕が確認されました。

    矢印の箇所が「エルス・トロクス」/Credit: H. Arcusa Magallón

    DNA分析の結果、遺骨は、新石器時代にヨーロッパ東部から移住してきた一団に属していたことが判明しています。彼らは、当時としては新しい農耕技術を持っており、土着の狩猟採集民とは遺伝子的に大きく異なります。

    また、遺骨の中の30代の男性は、同じく殺害された6歳男児の父親であることも分かりました。

    研究チームカートアルト氏は「土着の住民が移住者を虐殺した動機はいくつか考えられますが、最も考えられるのはテリトリー争いの問題でしょう」と指摘します。

    おそらく、土着の住民たちは、異国から来る人々を忌み嫌い、領土を賭けてしばしば殺し合いをしていたのでしょう。

    その証拠に、エルス・トロクスの南230キロ地点にある「Les Dogues」というロックシェルターには、当時の人々が武器を手に争う様子が描かれています。

    「Les Dogues」の壁画/Credit: nature.com

    こうした発見は、従来の考古学研究で主張されていたような、「新石器時代は争いのない平等主義が広く浸透していた」という仮説を180度転覆させるものです。

    古代世界に蔓延していたのは、異国民を嫌う「排他主義」だったのかもしれません。

    消えた娘たち。先史時代の墓地が明かす「人類不平等」の闇


    7000年前の「大虐殺の痕」がスペインの洞窟内で発見!”外国人嫌い”を証明?


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    本能寺の変を起こした明智光秀主人公に、激動の戦国時代を描くNHK大河ドラマ麒麟がくる』。評判が上々なのは、放送前から何かと注目を集めた背景もあるが、やはり“大河ドラマ=戦国モノ”の人気を証明した結果ともいえる。「教えて!goo」のメルマガで昨年配信した「歴史上の人物で、現代に生まれてきたら絶対に大活躍してた、と思う人物は誰ですか?」という質問にも、戦国武将の名前が多く挙がっていた。反響が大きかったので、ここで紹介したい。

    ■あなたは誰についていく?強さが魅力の戦国武将

    やはり外せないのは、織田信長豊臣秀吉徳川家康の「三英傑」。なかでも織田信長が人気No.1という結果になった。

    織田信長だと思います。兎に角、前例主義や当たり前など考えが凝り固まった日本の今を変えてくれるのは前例無視、結果重視の判断が出来る信長様だけだと思います」(kouson44さん)

    豊臣秀吉ですね。信長や家康は、一定の条件が揃っていましたが、秀吉にはそれがありません。秀吉のような人物は、何時の時代でも世に出る人物だと思います」(tanzou2さん)

    天下統一を果たした家康も名前が挙がっていたものの、理由はなし。ほかに、武田信玄上杉謙信真田幸村といった人気武将が名を連ねた。

    武田信玄もうちょっと長生きしてたら天下取れた。。」(ゴスケさん)

    上杉謙信の大ファンなのですが、最近、評判通りの聖人ではなかったとも聞きました。(中略)…武田信玄は政治力を巧みに使って、上杉謙信を牽制していましたので、政治家として生まれ変わってほしいですかね。真田幸村の英雄的存在も捨てられません」(斬鉄剣政宗さん)

    少々強引でも、その圧倒的カリスマ性で、時代を引っ張るリーダーを国民が求めているということなのだろう。

    ■幕末の日本で活躍!新時代を切り拓いた英雄たち

    信長と人気を二分したのは坂本龍馬。何度も映画やドラマの題材となり、名だたる俳優陣が演じてきたことからも、その人気の高さがうかがえる。

    「将来を予測して見据えた物の考え方が好きです。日本の将来と国民の為に死ぬ覚悟で何が正しいかを観て責任を果たそうとしたと思います」(龍鷲さん)

    そんな坂本龍馬ら脱藩志士を教育し、近代日本の幕開けに大きく貢献したこの人も。

    勝海舟。たぐいまれなる頭脳で世の中を改革してくれると思います」(あい犬さん)

    また、

    西郷隆盛」(f329さん)、「吉田松陰。日本の目指すべきヴィジョンを示し、多くの課題を解決するべき道筋をしめせる」(rose-rocxさん)

    という意見もあった。

    マルチな才能を持つ頭脳派への期待も高い

    ほかには、以下の意見にも注目しよう。

    平賀源内。良く、産まれてくるのが100年早かったと言われる。現代なら、ノーベル賞を取れたでしょう」(ビックエレキぱんさん)

    医師・発明家として、猛威をふるう新型コロナウイルス対策に乗り出してくれぬものか……。

    聖徳太子。特定多数と同時進行的に会話ができる、その聡明さ。平屋屋敷を五重塔として設計した傑出した想像力。つまり、政治・行政・立法・芸術などあらゆる分野に手腕が発揮されている。しかも好戦家ではなさそうなので、敵は作らず、多数の友好国とサミットでもcoopでも国連総会でも、まとめ上げてしまうでしょう」(jigen033さん)

    名前が挙がった偉人たちに共通するキーワードは、「大胆」「革新」「聡明」といったところか。現代の日本にも、こうしたリーダーの登場を願いたいものだ。

    (酒井理恵)

    教えて!goo スタッフ(Oshiete Staff)

    「現代でも大活躍できる歴史上の人物」といえば?


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    日本海軍駆逐艦「島風」はその足の速さで知られますが、実はこの「島風」より8年も前に、世界最速の駆逐艦として記録に残る艦艇がフランスで建造されます。その名もフランス語で「恐怖」を意味する「ル・テリブル」駆逐艦です。

    「島風」比110%の世界最速の駆逐艦

    日本海軍駆逐艦「島風」は、その足の速さで広く知られます。最速40.9ノットを記録し、旧日本海軍の艦艇で最速ですが、これを上回る45ノットをたたき出した駆逐艦が地球の反対側にありました。

    「島風」を凌駕するスピードを出したのは、「ル・テリブル」というフランス駆逐艦です。第2次世界大戦前に建造されたル・ファンタスク級駆逐艦の1艦ですが、なぜフランスはここまでの俊足艦を作ったのでしょう。

    その理由は、フランス海軍が想定していた仮想敵にありました。

    フランスヨーロッパ大陸の西端にあり、大西洋と地中海に面しているものの、両方の海は国内でつながっていません。また外洋の大西洋と、ヨーロッパ大陸およびアフリカ大陸に囲まれている地中海とでは、海洋条件がまったく異なります。

    フランス海軍は19世紀後半以降、大西洋側ではドイツ海軍を、地中海側ではイタリア海軍をそれぞれ仮想敵としていました。そのため基本的に近海で作戦行動することを念頭に置いており、航続距離よりも速力と火力に重点を置き、それで前述の2か国の軍艦に打ち勝とうとしたのです。

    このような設計思想のため、フランス駆逐艦は艦砲も強力です。たとえばル・ファンタスク級の主砲は13.8cm単装速射砲5門で、「島風」の12.7cm連装砲3基(計6門)よりも大口径です。その一方、航続距離は巡航速度の17ノットで3600海里(約6660㎞)と、「島風」の同じく18ノットで6000海里(約1万1110km)に比べて3分の2程度しかありませんでした

    脚の長さなどいらぬ 速力と火力こそ大事

    ル・ファンタスク級駆逐艦は基準排水量2569トン、満載排水量3400トン、全長132.4mで、旧日本海軍の「島風」が基準排水量2567トン、満載排水量3324トン、全長129.5mのため、両艦のサイズに特段大きな差はありません。

    ル・ファンタスク級は6隻建造されましたが、1931(昭和6)年8月から翌年1月の約半年のあいだに全艦起工され、「ル・テリブル」は5番艦ながら最も早い1933(昭和8)年11月に進水し、1935(昭和10)年4月に就役しました。

    この就役前の1月30日に行われた公試運転時に、「ル・テリブル」は最大速度45.02ノット(約83.0km/h)を記録、これが駆逐艦として史上最速と認められ、のちにギネス世界記録にも、世界一速い駆逐艦として登録されます。

    この記録達成は、日本の「島風」が1943(昭和18)年4月7日の全力公試で40.9ノットを出す8年も前のことでした。なお、公試運転時の最大速度で、ネームシップの「ル・ファンタスク」も42.72ノットを記録しています。

    ちなみにフランス海軍は1920年代以降、駆逐艦の運用に関し、水雷艇部隊を率いる旗艦的存在としても用いようと考えたため、他国における軽巡洋艦の任務までも肩代わりできるよう設計されていました。

    活動の場は大西洋から地中海へ 大戦後はアジアにも

    第2次世界大戦勃発時は新鋭駆逐艦として、おもに大西洋で活動していた「ル・テリブル」は、フランスドイツに降伏したあとも、いわゆるヴィシー・フランス政府の下、フランス海軍艦艇として活動を続けました。

    そのため、一時はイギリス艦隊とも戦火を交えることになりましたが、そののち、連合国軍の一員として戦っていたド・ゴール将軍が指揮する自由フランス軍の指揮下に入ります。

    それにともないアメリカにおいて1943(昭和18)年2月、アメリカ製の高性能ソナーやレーダーの搭載、対空機銃の増設、燃料タンクの容量増加といった近代化改装を受けます。

    この改装によって「ル・テリブル」は、排水量が約500トンほど増えましたが、それでも最大速力は40ノットを維持しています。またアメリカイギリスの基準に合わせて、艦種が駆逐艦から軽巡洋艦に変更されました。

    半年後の1943(昭和18)年7月に前線へ戻った「ル・テリブル」は以後、大戦終結まで一貫して地中海で活動を続けました。イタリアや南フランスへの上陸作戦や、アドリア海でのドイツ輸送船団への攻撃などを行った後、1945(昭和20)年の終戦を迎えます。

    戦後は一時、予備艦になりますが、「高速護衛艦」に種別変更され現役復帰を果たすと、フランスインドシナ(現在のベトナムカンボジアラオス)に派遣され、現役から外れた後も1962(昭和37)年1月まで、海軍学校にて後進の教育に貢献しました。

    「ル・テリブル」は1935(昭和10)年から1962(昭和37)年まで、27年間にわたって海軍艦艇として使用されました。旧日本海軍駆逐艦「島風」が1943(昭和18)年5月に就役し、1944(昭和19)年11月に戦没するまでわずか1年半しか存在しなかったことと比べると、ずっと長生きだったといえるでしょう。

    就役直後の1935年5月、外洋を進む「ル・テリブル」(画像:アメリカ海軍)。


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     日本を訪れた中国人の多くは、「日本は現代化と伝統の保存を上手に両立させている」と驚くというが、なぜそのような感想を抱くのだろうか。中国メディアの今日頭条はこのほど、「日本は高度に発達した先進国であるというのに、いたるところに神社仏閣が存在するのはなぜか」と指摘する記事を掲載した。

     記事は、日本は製造業や金融業などで世界有数の実力を持つ先進国であると伝え、「物質的に豊かになれば、人びとの宗教に対する信仰心が薄れても不思議ではないのに、なぜ日本は伝統的な神社仏閣が今なお数多く残されているのだろうか」と疑問を投げかけた。

     この理由について、「神道や仏教が日本人の生活に密接に結びついているため」ではないかと考察し、日本人はあらゆるものに神が宿ると考えるため、神社の数が多いのは不思議なことではないと指摘。また、お寺は日本人の死生観に関わる存在であったうえに、かつては寺子屋として日本人の教育の普及に関わった場所であると伝え、中国人に比べて日本人にとって宗教はより身近な存在としてあり続けたのだと指摘した。

     さらに、日本で神社仏閣が持つ経済的な力は大きいとし、広大な土地を持ち、莫大な資産を持つ神社仏閣は少なからず存在すると強調。中国と違って、日本の神社仏閣は「家族経営」で成り立っており、長い時間をかけて大きな経済力を構築してきたと紹介、たとえば日本を代表する山として中国でも広く知られる富士山は「八合目から上は浅間神社の私有地」であると指摘した。

     記事は、高度に発達した日本において、今なお神社仏閣が至る場所にあるのは「日本人の生活にそれだけ密着した存在であることを示し、同時に淘汰されることなく存続できる経済力を持つためだ」と主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    高度に発達した日本、なぜ伝統的な神社仏閣が数多く存在するの?=中国メディア


    (出典 news.nicovideo.jp)


    (出典 blogimg.goo.ne.jp)



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