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    歴史

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     日本は明治維新の成功をきっかけに近代国家へと歩んでいくが、中国の洋務運動はそこまで国を変えるきっかけにはならなかった。それはなぜだろうか。中国メディアの百家号はこのほど、日本の明治維新が中国の洋務運動と違って成功したのは「西洋の強国が日本の成功を許したおかげだ」と主張する記事を掲載した。

     記事は、当時の西洋列強は日本と中国に対する扱いが違ったと主張。日本に対しては明治維新が成功するのを「黙認した」にも関わらず、中国の洋務運動の成功は「許さなかった」そうだ。これはどういうことだろうか。

     記事は、西洋列強の「日本と中国に対するイメージに違いがあった」ことを理由の1つとしている。中国は当時、ベールに包まれた謎の文明国家で、宝の国というイメージがあり、中国が強くなると列強が中国へ侵略するのに不都合になると考えたと説明した。それに対して日本は、小さな島国で土壌も悪く、放っておいてよいと判断したのだろうと分析。そのため、後に日清戦争で日本が勝利したことに西洋列強は大変驚いたとしている。

     別の理由は、「日本が西洋列強のターゲットではなかったこと」。列強の目的は「中国からうまみを得ること」であり、中国のなかで列強同士が牽制し合っていたと論じた。例えば、不凍港を欲したロシアの南下をけん制するのに、明治維新後の日本は列強にとって都合の良い道具となり、そのおかげで列強はより多くの利益を得ることができたのだという。

     記事は、西洋に妨害されなかったために日本の明治維新が成功したように論じているが、幕末明治期の日本人は、西洋列強の属国になる恐れを抱え、国家存亡の危機に立ち向かったことを原動力に、西洋列強による侵略を阻止できたといえるだろう。この危機感が中国には全体的に欠如していたことが、日本との大きな違いだったのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    日本の明治維新が成功したのはなぜなのか! それは「西洋の強国が日本の成功を許したおかげだ」=中国


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     中国では連日のように抗日ドラマテレビで放送されており、映画界でも定期的に抗日映画の新作が撮影、上映されている。現在は第2次上海事変(中国名:淞滬会戦)を描いた「八佰(The Eight Hundred)」が中国で上映されており、大きな注目を集めている。

     中国メディアの百家号は3日、中国で映画「八佰」が上映されたことで、多くの中国人は再び「苦難に満ちた抗日戦争」の記憶を新たにしていると主張しつつ、日本と中国では歴史に対する態度が大きく異なっていると主張する記事を掲載した。

     記事は、中国が抗日をテーマにした映画やドラマを上映、放送し続けるのは「国辱を忘れず、歴史を胸に刻みこむためである」と主張。戦争とは残酷なものであり、今日の安定した生活があるのは「戦争で失われた無数の命のおかげ」であるとする一方、こうした中国の歴史に対する態度と日本の態度は大きく異なっているのが現状だと主張した。

     そして、中国メディアが過去に日本の街中で中学生たちに対して「南京大虐殺を知っているか」とインタビューを行ったところ、中学生たちから返ってきた答えは「名前だけは聞いたことがある」、「知っているが詳しくは分からない」といったものだったと伝え、これは日本が教科書で自分たちが行ったことを子どもたちにしっかり教えておらず、事実を「隠している」ことを示すと主張。

     また記事は、日本は中国のように戦争をテーマにしたドラマや映画を撮影し、放送することもないとし、南京大虐殺を詳しく知らない日本の子どもたちは「大人になった時には戦時中の罪を否定することになるかもしれない」と主張。日本は歴史を正視すべきであり、正しい歴史を子どもたちに教えるべきであると主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    南京大虐殺を詳しく知らないだと? それが日本の歴史に対する態度だ! =中国報道


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     第2次世界大戦では敗戦国になった日本だが、戦前には日清戦争日露戦争でそれぞれ清とロシアに勝利している。どちらも大国であったにも関わらず、日本が勝利できたのはなぜだろうか。中国メディアの百家号は19日、「なぜ小さな日本が明治時代に大国の清とロシアを倒せたのか」と題する記事を掲載した。

     記事はまず、江戸時代までは日本と清との間に大きな差はなかったと紹介。鎖国して自給自足をしていた国が強制的に開国を迫られ、それぞれ明治維新と洋務運動を起こしたあたりまでは大差なかったはずだという。ロシアに関しては、こういった脅威にさらされることすらなかったとした。

     では、なぜ日本は大国であった清とロシアに勝利できたのだろうか。記事は、清に関しては日本と似た洋務運動が起こったものの、「本当に国を変える気がなかった」ために、日清戦争が始まった時には大国というよりも「ただ太っているだけの国」であることが判明し、政治、軍事、文化、教育など各方面で全く新しい国に生まれ変わった日本に太刀打ちできなかったと分析した。

     そして、清に勝利した日本は賠償金を得て「一夜にして成金となり」、軍事を拡張し、その勢いのままロシアに勝利したと主張。ロシアも、改革を徹底していなかったため経済力がなく、日本はロシアをけん制したい英米の支持を得ることができたほか、ロシアは国内が不安定であったため、清と同様に「ただ大きいだけの国」だったと論じている。

     結論として記事は、「清もロシアも日本のような改革ができず、タイミングも悪かったため、日本に敗れた」と主張している。中国では、日本の明治維新の成功が高く評価され、たびたび研究の対象となっている。明治時代の日本の変化は、やはり世界的に見ても特異な出来事だったと言えるのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    明治時代の日本はどうやって「大国」だったはずの清とロシアを打ち破ったのか=中国


    (出典 news.nicovideo.jp)


    (出典 www.cinra.net)



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    (吉田 典史:ジャーナリスト

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     第2次世界大戦を終え、75年目を迎えた。この時期は、戦争と平和をテーマにした報道が増える。国や自治体、団体の行事も多い。確かに大切ではあるのだが、実際は日頃から深く考える日本人は少ないだろう。だが、最近は日本の国境付近で緊張が生じ、平和とは何か、と考えざるを得ない状況になりつつある。

     今回は、国と国の争いをリアルに捉えるために、ある親子を取り上げたい。2020年6月21日西日本新聞社会面に掲載された記事に、この父と子が載っていた。1945年、終戦直後に戦争犯罪人として収監され、いったんは死刑判決となりながら、釈放された旧軍人(父)とその息子(三男)である。

     筆者は以前から、戦時中に墜落したB29の搭乗員の行方に関心があった。戦争の極限状態を考えるうえで、意味の深い素材であると思うからだ。それだけに、西日本新聞の記事に引き込まれた。この息子に急いで取材を依頼した。読者諸氏は、父子の人生から何を感じるだろう。

    肯定や否定の考えはなく、事実として淡々と受け止めていく

    「父は、懺悔の思いで祈っていたのではないと思います。あの日(1945年6月20日)、自分が(米軍の爆撃機)B29の飛行士や搭乗員たち(4人)を斬首しなくとも、何らかの形で(日本軍に)処刑される運命だった。前日にB29による空襲で母を殺された父が、墜落した機の搭乗員を斬首すると上官らに名乗り出ました。

     その時に、父と4人の間に因果が生まれたのだと父は思っていたのではないでしょうか。それは仏教で言うところの、業(ごう)でありましょう。 

     終戦後、父は捕虜を殺害したとして、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)の指示で来た警察に捕まり、BC級戦犯(戦争犯罪人)となった。死刑判決となるものの、減刑となり、東京の巣鴨(プリズン)を(1956年に)出所した。その後、自宅の敷地内に4体の地蔵を建てました。おそらく、4人を弔うものだったのでしょうね。

     淡々とした思いで時々、地蔵に手を合わせていたのだと思います。後悔や反省、懺悔ではなかったのでしょう。その意味での罪の意識はなかったのだろうと思います。父は(母を殺されたことの)私憤で斬首したことは責められるべきだろうが、行為そのものへの罪は感じていなかったのではないでしょうか。

     私も時折、地蔵の前で手を合わせますが、懺悔ではありません。かつてこういうことがあったのだな、といった思いです。父と私を取材する新聞などは、“搭乗員に懺悔をする父子”と報じたいのかもしれませんね。父や私に、その考えはありませんよ。毎日、拝むこともしません。私たちには斬首の一件を肯定や否定する考えはなく、事実として淡々と受け止めていくといった思いです」

     文具品などを販売する株式会社TOHJI(とうじ)」(福岡市)の会長、冬至克也さん(66歳)が答える。陸軍の軍人であった父、堅太郎氏(1983年、68歳で死去)は戦時中、九州方面を管轄する西部軍に勤務していた。階級は終戦時、主計大尉だった。

    当時の日本人の平均的な感情や思いを超えるものではなかった

     1945年6月19日から20日にかけて、米軍は爆撃機B29による大規模な空襲を行った。いわゆる「福岡大空襲」である。総務省ホームページの「福岡市における戦災の状況」にこういう記述がある。

    「昭和20(1945)年6月19日マリアナ基地を発進したB29は、九州の行政、経済の中心である福岡市の工場、港湾、鉄道などを攻撃目標として、九州南部より分散北上し、有明海から佐賀県、背振山地を越えて西南部方面から本市上空に侵入した。221機といわれるB29の反復攻撃は、午後11時10分ごろから翌20日の午前1時ごろまで続き、約2時間にわたる空襲で、市の繁華街をはじめ、主要な地域を殆ど焦土と化した」

     同べージには、「被災人口6万599人を数え、死者902人、負傷者1078人、行方不明244人を出した」とある。死者の中に、堅太郎氏の母(実の母親)がいた。堅太郎氏は行方がわからない母を見つけ出したが、亡くなっていた。

     冬至克也さんが、父が残した手記「巣鴨日記」(1946年8月~52年10月の6年間ほぼ毎日書き込まれている)や生前、家族や知人に語っていたことをもとに説明する。

    「父の母の遺体は、背中に炎の後があったものの、顔は比較的きれいで、焼夷弾による煙で窒息死にいたったようです。

     父は母を見つけた後、棺をつくるために部隊に戻ったのですが、人だかりができていたので、見に行ったのです。(撃墜されたか、もしくは故障し)墜落した機の搭乗員たちが、囚われの身となっていました。この機は福岡大空襲で墜落したのではなく、以前、他所に墜落した機です。その搭乗員たちが福岡に収監されていたのです。

     処刑が行われる直前だったようで、母親が殺害された以上、自分は飛行士や搭乗員を処刑するに値する人間だと思い、斬首に志願したそうです。それが認められ、軍刀を借りました。一人を斬首した後、『次もいけ!』とその場にいた上官から言われたのです。

     結果として、4人を斬首しました。そこには、軍の参謀や法務部長も立ち会っていたそうです。父としては、軍の裁判である軍法会議を経て処刑が決まったと思っていたようです。その場の状況からして疑うまでもないと感じたのでしょう。

     父の行為は、当時の日本人の平均的な感情や思いを超えるものではなかったのではないか、と私は思います。実際、米軍の飛行士や搭乗員の処刑は各地で行われていました。軍人だけでなく、地元の住民らに殺されたケースもあると聞きます。逆に、米軍の搭乗員らが(墜落後)住民を殺すケースもあったようです。戦闘員非戦闘員の区別なく、殺し合いをしていたのです。戦争は、最後はこのようなものになるのではないでしょうか。

     父は(1945年の)終戦直後に、斬首をした処刑は軍法会議を経たうえでの判断ではなかったと聞かされました。当時、GHQに旧軍人が捕虜殺害・虐待の容疑などで次々と捕まっていると新聞が報じていました。自分も逮捕され、死刑になると確信したそうです」

    発言をすることが、死刑になった戦犯への供養

     堅太郎氏は戦争犯罪者として逮捕され、巣鴨プリズンに収監された。横浜BC級戦犯裁判所の裁判(搭乗員斬首事件)では、1948年12月29日に「絞首刑」の判決を受けた。冬至克也さんが、話を続ける。

    「一応は(被告である父に日本人の)弁護士がついていて、あなたは死刑判決になっても止むを得ない、と言われていたようです。裁判では、処刑の場にいた上官や父たちなど関係者の間で“命令があった”“命令ではない“と責任をなすりつけあう一幕があったそうです。そのためか、他の事件と比べると判決が確定するまでに時間がかかったのです。その間に、(1950年に)朝鮮戦争が勃発し、日本は(1951年に)主権が回復した。この時期にGHQの考えが、変わったのかもしれません。何がどうなるのか、わからないものですね」

     その後、減刑となり、1956年に釈放され、福岡に戻る。文具店の店主として経営を長年担った。家族に戦争や巣鴨プリズンにいた頃を積極的には語ることはなかった。折に触れ、たとえば、戦犯や巣鴨に関する報道やテレビドラマが放送された時などは詳細に語ったようだ。そのような時は懐かしそうに、ポジティブに語ることもあったという。当時から、地元の新聞社の取材には時々、応じた。自らが関わった斬首事件や戦犯であったことを淡々と語った。

    「父は巣鴨で知り合った戦犯で、処刑された人のために、(社会に向けて)声を出そうとしていたのではないか、と思います。父は(巣鴨プリズンにいる)戦犯のほとんどが、自分は罪を犯していないと信じていた、と述懐しています。父もまた、自らを(刑事事件の)罪人とは思っていなかったでしょうね。あの裁判が戦勝国の敗戦国への復讐であり、見せしめのようなものだったのではないでしょうか。父はそれを心得えて、臆することなくしていたのだと思います。自分が発言をすることが、死刑になった戦犯の人への供養になると考えていたのではないでしょうか。

     息子である私がこうして発言するのも、そんな父の姿を見ているからです。私の兄は発言をあまりしたがりません。そのあたりは、実の兄弟でも温度差があるのです。

     父は、あの戦争で日本はアジアの国の人たちに相当な迷惑をかけたとして、(店を経営する一方で)アジアからの留学生の支援を積極的にしました。政治に対して右派的な考えは、まったく持っていませんでした。保守や革新といった概念を持っている様子はありませんでした。そのような言葉さえ聞いたことがありません。政治的思想はなく、仏教に対する信仰心からくる価値観に根付いた判断をしていたものと思います。

     愛国心については、周囲の国から愛される国にするのが、(その国の人にとっての)愛国心とも語っていました。愛は無償のもので、見返りを期待するものではない。下から上への愛は封建的なもの、上から下への愛は常に無償のものであるべきとも語っていました。私が影響を受けた言葉であり、子どもたちにもこうでありたいと思っています。難しいことですが・・・」

    戦争にしないためには、理性と知性が必要

     終戦から75年を迎え、日本を取り巻く国際環境は変わりつつある。たとえば、中国が尖閣諸島を脅かす行為を繰り返している。冬至克也さんも、その動きを懸念する。

    「私は、外交としての政治については語らない方がいいという気持ちがあるのです。それでも、国民に危機が及ぶことが考えられる場合などは主権者として語らなければいけないといった思いもあります。今、日本が置かれた状況はキナ臭くなっています。(国内ではかつては)戦争をしないといった制度や態勢になっていました。それが、次第に変わろうとしています。(外国との関係では)ある日、日本の島に外国の軍艦が来て、軍が上陸する事態にならない、とは言えない状況になっています。

     個人でも正当防衛は、認められます。国でも専守防衛のもと、領土を守ることは必要です。降りかかる火の粉は、振り払わないといけない。それを(局地的な)戦闘で終わらせるのか、それとも戦争にしてしまうのかを判断するのは為政者の考えによるものです。それを国民が煽ったりするものではないですね。

     戦前、日本が戦争をしたのは当時の国際情勢にも一因はあるのでしょう。為政者やマスメディアプロパガンダ(宣伝)、軍が求めたものでもあるのでしょうが、国民も求めたのではないか、と私は思っています。

     日米があれほどに憎しみ合っていたのに、今やとても親しい関係になりました。なぜ、激しい対立を防ぐことができなかったのだろう、と思います。結果論かもしれませんが、あの戦争をせずに今日の関係を築き上げることはできなかったのかなと疑問が湧いてきます。

     現在の国際情勢を見ていると、人類は戦争をしたがるのかもしれない、戦争する動物なのかな、とも思います。もちろん、戦争は否定されるべきと私は考えています。戦争をしないためには、理性と知性が必要で、それを育むのが教育です。理性と知性があれば、国やメディア、社会、世論が戦争をする方向に導こうとする時に、自分が引っ張られないようにすることができると思うのです」

    取材を終えて

     筆者が第2次世界大戦の日本の戦争をテーマに初めて取材をしたのが、27歳だった1995年。当時、戦争の経験者はほとんどが50代以上だった。最近、その中に他界する人が増えてきた。当事者からじかに聞く機会は減りつつあるが、家族から伺うことはできる。

     95年当時と比べると、北東アジアの情勢は変わり果てた。今、あらためて報じたいと思った。その際、国の対立、紛争、戦争を情緒的、心情的、感覚的に捉え、政治思想で言うところの「右」「左」とレッテル貼りをする報道を、筆者はかねてから否定している。今回は、事実を積み重ねる中で戦争の一断面を浮き彫りにしたかった。それが、死者や遺族、犠牲者が多数現れ、国や社会の後遺症が残り続ける戦争を報じる者の責任と考えているからだ。

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  戦後75年、このままでいいのか日本の「戦争総括」

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    北マリアナ諸島テニアン島から出撃するアメリカ軍のB29爆撃機(資料写真、出所:米空軍歴史研究局)


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     本日8月15日は終戦記念日である。ここでは、この日に観るにふさわしく、そして現代にも通ずる普遍的な問題も関わる、第二次世界大戦にまつわる出来事を描いた映画を、5作品に絞って紹介しよう。

    ◆1:『日本のいちばん長い日』(1967)

     1945年8月14日正午の会議から、翌日の15日正午に玉音放送がされるまでの24時間を追ったサスペンスドラマだ。圧倒されるのは、その“熱量”。登場人物たちの衣装や顔には汗がにじみ出ていて、口から唾を飛ばし、怒鳴りまくり、己の正当性を訴えるために奔走する。クーデターを起こそうとする青年将校、冷静ではいられなくなる政府高官たち、それぞれの思惑と行動は熱気に満ちている以上に狂気的でもある。

     決定的な時間が差し迫っている中、巨大な問題に立ち向かい、火花を散らし合う極限状態の人間たちの姿は、エンターテインメントとして圧倒的に面白く、2時間半超えの上映時間であっても全く退屈することはない。歴史の裏にあった文字通りに命がけだった彼らの行動を追いながら、「一歩間違えば、この時に終戦を実現できなかったかもしれない」という“あり得た歴史”を考えてみるのもいいだろう。後の『シン・ゴジラ』(2016)にも強い影響を与えた、パワフルな映画の醍醐味を堪能できる名作中の名作である。

     なお、本作はAmazonプライムビデオで現在見放題であり、同サービスでは同じく岡本喜八監督作品の『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』『殺人狂時代』『激動の昭和史 沖縄決戦』もラインナップに入っている。そちらも合わせて観てみるのも良いだろう。岡本監督の良い意味での極端でクセの強い作風、そして画面から伝わる熱気は、今観ても鮮烈なものとして映るはずだ。

    ◆2:『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020)

    ©2020「海辺の映画館―キネマの玉手箱製作委員会/PSC

     こちらは現在劇場で公開中の映画であり、4月10日に亡くなった大林宣彦監督の遺作であると同時に、その集大成的な作品となっている。カラフルというよりもビビッドな配色、合成で作られた摩訶不思議な舞台、早いカット割りで怒涛の勢いのセリフと情報が繰り出されるといった独特すぎる作風は、大林監督作品を観たことがないという方にとって(観慣れている人でも)びっくりしてしまうことは必至だ。今回は劇中で「映画とはそもそも不自然なものなのだ」という言及すらあり、巨匠が最後に一切の遠慮をせずに、己の作家性を全開にした映画を作り上げたことがわかる。

     物語は、閉館を目前にした映画館オールナイト興行で“日本の戦争映画大特集”を観ていた3人の若者がスクリーンの世界に入ってしまい、戊辰戦争日中戦争沖縄戦、そして原爆投下前夜の広島など様々な戦地を体験するというもの。映画の中に入って冒険するのは『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)のようであり、同じ俳優がそれぞれの時代で違う役を演じているのは『クラウド アトラス』(2012)のようでもある。戦争の愚かさや残酷性は、その戦争の歴史と共に進歩を続けていた映画でこそ表現し得るという、大林監督の矜持も感じさせる。

     事実、大林監督は本作について「これはキネマ(映画)の持つ途方もない愉しさと、そこから学び得る歴史の悲しみを、我々の想像力によって無限に味わいつくそうと仕組まれた、超娯楽作の1本」であると語っている。出来上がったのは、約3時間という上映時間をたっぷりと使った、SFやミュージカルやラブストーリーはたまたエロスやバイオレンスまで、様々なジャンルミックスされた映画という娯楽の満漢全席、まさにタイトル通りの“キネマの玉手箱”のような内容だ。ぜひ映画館で、反戦と平和、矛盾に満ちた人間の悲喜劇もしっかり打ち出した、巨匠のラストメッセージを受け取ってほしい。

    ◆3:『火垂るの墓』(1988

     言わずと知れた有名な作品であり、戦時中の幼い兄妹の悲劇の物語として受け取られている方は多いだろう。本作は“全体主義”の観点からも、非常に重要なメッセージが投げかけられていたということを、ここで提言しておきたい。

     第二次世界大戦中の日本では、お国のために一致団結する、戦争に懐疑的な者を非国民として非難するといった全体主義がまかり通っていた。しかし、14歳主人公・清太は周りの大人たちの手を振りほどき、4歳の節子と2人だけで壕で暮らすという、全体主義から反旗をひるがえすような行動をしていた。艦隊で戦っている父が生きて戻って来るという希望があったせいもあって、彼は妹の節子にただ悲しい思いをさせないために、“社会的なつながり”を自ら放棄しているように見える。

     物質的に豊かになった現代では、清太のような「みんなとは違う生き方」という選択肢も取れるかもしれないが、あらゆる情報が不足し、食事もままならない戦時中ではそうもいかない。戦争という出来事そのものよりも、「みんながこうするべきだ」という全体主義および、その正反対の行動といった、一方的で極端な考えが生きることを困難にしてしまうこともあるのではないか、そこにこそ悲劇があったのではないか……。故・高畑勲監督の着眼点は鋭く、人間の社会にある真実を捉えている。

    ◆4:『アルキメデスの大戦』(2019)

     三田紀房による同名マンガの実写映画化作品であり、戦争の悲劇性や小難しい話が苦手という方にも文句なしにオススメできる、万人が楽しめるエンターテインメントだ。冒頭の戦艦大和の沈没シーンは大迫力かつ映画としての“掴み”としても抜群で、戦艦の予算の虚偽を数学の天才が暴くという構図そのものが痛快であり、天才数学者だが変人で型破りな性格の菅田将暉と、初めは反発するも頼れる相棒へと変化していく柄本佑との“バディ感”も楽しい。

     時代は第二次世界大戦開戦の前であり、主人公の数学者は「日本がアメリカに戦争で勝てるはずがない」と初めから達観している。しかし、言うまでもなくこの後に日本は戦争に突入してしまうし、戦艦大和も作られ、しかも撃沈してしまう。さらに、この数学者は美しい数式により作られた戦艦を愛してはいるが、それは戦争および人殺しのための兵器であることもわかっているという、宮崎駿監督の『風立ちぬ』(2013)の航空技術者に通じる“矛盾”を抱えている。その事実と見事に折り合いをつけた決着は、カタルシスがあると共に、戦争の無情さも痛切に伝わるものであった。

     また、政府の高官が論理的な事実ではない、ほとんど“意地の張り合い”で口論をしている様は滑稽でもある。“数字”という普遍的かつ明確な証拠でもなければ、そうした権力者の短絡的な主義主張が覆ることなく押し通されかねないというのは、残念ながら現代の日本社会にも通ずる悪しき体制ではないか。社会的責任のある立場の方にも、ぜひ観ていただい。

    ◆5:『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(2019)

     2016年に公開されたアニメ映画この世界の片隅に』は絶賛に次ぐ絶賛で迎えられ、異例のロングランヒットを記録していた。すでにデジタル配信がスタートしており、9月25日よりソフトも発売される『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、そちらに50以上の新規カットを描き加えた、もはや“新作”と言って差し支えない内容である。

     加えられたことで特に大きいのは、遊郭の娘“リン”のエピソードだ。リンと主人公であるすずの関係性は親友同士というだけでなく、複雑な愛憎の感情が入り混じる、“オトナ”な印象も強くなっていく。リンの存在により、すずの心情や、その行動の印象、その前後の『この世界の片隅に』から全く変わっていないはずのシーンでもさえも、印象がガラリと変わっていく。

     『この世界の片隅に』は戦時下の困難の中にあっても、懸命に日々を生きていく人々の姿を丹念に綴っていた。この『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』では、さらに四季折々の風景や、女性としての物語が濃く描かれたことによって、さらに“あの時代の生活”を新たな視点をもって体験できるようになっている。上映時間は2時間48分と非常に長くなったが、ぜひ腰を据えて、じっくりと見ていただきたい。

    ◆今年公開の戦争映画たち
     2020年には、他にも第二次世界大戦を扱った映画が公開される。80歳の老婦人にかけられたスパイ容疑が広島と長崎に落とされた原子爆弾のとある事実に繋がっていく『ジョーンの秘密』は現在公開中で、アメリカ軍日本軍のそれぞれの立場を描いた『ミッドウェイ』9月11日より公開、反逆者と疑われる夫とその妻の姿を追った『スパイの妻』10月16日より公開となる。

     いずれも、戦時中の特別な事態に巻き込まれた人々の姿を描いていながらも、人間の愛憎入り交じる心理や葛藤、社会的な価値観やその問題は現代にも通ずるものとして映る。完全に同列で語るべきではないだろうが、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』での、困難な状況にあっても懸命に日常を過ごす人々の姿は、新型コロナウイルスが蔓延した世の中で生きる我々の姿にも重なるところもあった。

     戦争という過去の出来事を描いた映画は、現実の戦争のない平和な日常の幸せを噛み締められると共に、その歴史の裏にある悪しき体制を繰り返さないために何ができるか、という学びを得られることも往々にしてある。今こそ、これらの第二次世界大戦を描いた映画を観て、現実の問題にフィーバックするためのヒントも探してみてほしい。

    <文/ヒナタカ>

    【ヒナタカ】
    インディーズ映画や4DX上映やマンガの実写映画化作品などを応援している雑食系映画ライター。過去には“シネマPLUS”で、現在は“ねとらぼ”や“CHINTAI”で映画記事を執筆。“カゲヒナタの映画レビューブログ”も運営中。『君の名は。』や『ハウルの動く城』などの解説記事が検索上位にあることが数少ない自慢。ブログ 「カゲヒナタの映画レビューブログ」 Twitter@HinatakaJeF



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    75年前に日本は戦争に負けた。そのことを日本はいつまで反省しなければいけないのか。早稲田大学社会科学総合学術院の有馬哲夫教授は「前提となる歴史観には首をひねりたくなるものが多い。その原因はマスコミと教育であり、GHQが日本に対して行った『心理戦』に源流がある。そろそろ占領時の呪縛から解き放たれてもよいのでは」という——。

    ※本稿は、有馬哲夫『日本人はなぜ自虐的になったのか:占領とWGIP』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

    ■夏になると蘇る「敗戦国」の記憶

    毎年、8月になると戦争関連の報道、番組が増えます。この場合の戦争というのはもちろん1945年に日本の敗戦で終わった先の戦争のことです。さまざまなテーマが扱われますが、基本的なトーンとしては「反省」が軸にあるものがほとんどです。無謀な戦争をして、多くの犠牲を出し、酷い敗け方をした以上は当然でしょう。

    しかし一方で、その前提となっている歴史観には、首をひねりたくなるものも多々あります。たとえば、以下のような文章を読んで、読者はどう思われるでしょうか。

    「日本は無条件降伏したのだから、旧連合国の要求や批判を受け入れるしかない。先の戦争は連合国とくにアメリカアジア諸国から日本の支配を排除した太平洋戦争であって、欧米列強からアジア諸国を解き放ち共栄圏を作るための大東亜戦争ではなかった。連合国とくにアメリカは正義の戦争を戦って悪の戦争をした日本に勝ったのだから、極東国際軍事裁判で日本の戦争責任と戦争犯罪だけを追及する正当性を持っている。広島、長崎への原爆投下は、それによって戦争終結が早まり、およそ百万のアメリカ将兵の命が救われたので仕方がない一面がある。日本は戦争中『韓国人』や『北朝鮮人』に被害を与えたのだから、賠償するのは当然だ」

    一言で言ってしまえば「無謀な戦争をしかけた敗戦国には何も言う資格はない」ということでしょうか。

    程度の差こそあれ、このような歴史観を持つ日本人は決して珍しくありません。それどころかマスメディアや研究者の世界には多数います。朝日新聞などもこうした見方を肯定します。その影響は決して無視できるものではありません。

    ■現在も影響が残る、GHGが仕掛けた心理戦

    しかし、こうした見方は一次資料をもとに検討した場合、間違っているといわざるを得ません。代表例として「無条件降伏」について触れてみましょう。

    ポツダム宣言で無条件降伏を受け入れた」という認識を持っている人はことの他多くいます。たとえば、NHKが今年8月6日に放送した「NHKスペシャル『証言と映像でつづる原爆投下・全記録』」では、あいかわらず「日本は無条件降伏した」というナレーションが入っています。

    しかし、冷静に考えてみてほしいのですが、そもそも無条件降伏などというものは、いかに当時といえどもありえません。そのようなことが許されれば、皆殺しすら正当化されてしまいます。近代の戦争でそのようなことは許されません。だからトルーマン大統領は無条件降伏を主張したものの、当のアメリカの軍人たちからも反対が出ました。

    有名な玉音放送で、天皇は「国体を護持」できたことを明言しています。それが降伏条件の一つだったことは明らかです。

    また、大東亜戦争という用語は、ほとんど右翼が用いる言葉のようなイメージを持つ人が多いため嫌われがちで、一般には太平洋戦争という言葉が使われています。しかし、前者は日本政府が当時閣議決定した名称ですから、この方が本来正しい。そもそも日中戦争太平洋で行われていません。ところが、GHQがこの用語を禁じ、後者を強いたために現在では、こちらが一般的になったわけです。

    ■ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の中身

    このように、さきほど述べたような歴史観(「日本は無条件降伏したので~」云々)は、戦後、GHQが日本に対して行った心理戦の影響が今なお残っていることを示しています。

    この心理戦の中でも最も有名なのがウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)でしょう。

    WGIPとは、日本人に極東国際軍事裁判(一般には東京裁判と呼ばれる)を受け入れさせるため、占領中にアメリカ軍日本人に先の戦争に対して罪悪感を植えつけ、戦争責任を負わせるために行った心理戦のことです。その存在は評論家の江藤淳が『閉された言語空間』で明らかにしたことで有名になりました。

    結果として、先の戦争において敗北した日本だけが悪をなした「戦争加害国」であるという「戦勝史観」が日本国内ではいまだに幅をきかせています。これを「自虐史観」と呼ぶ人もいます。

    戦争を反省するのは決して悪いことではありません。大きな問題は、こうした見方が結果的に現在の我々にもなお悪い影響を与えていることです。

    ■中国と韓国は戦勝国ではない

    たとえば、中国と韓国は、「日本はアメリカおよび連合国だけでなく、自分たちの『国』とも戦って負けたのだから、自分たちは戦争賠償を求めるなど戦勝国としての権利を持っている」と主張しています。

    しかし、戦後秩序を決めたサンフランシスコ講和会議において、両国は日本と戦争状態にあった「国」とも、戦勝国とも認められませんでした。

    そもそも韓国にいたっては日本の一部でした。したがって、戦後の日本に対する権利や請求権などを定めたこの条約の署名国になっていません。にもかかわらず両国は、これはアメリカが勝手に決めたことで無視できると考えています。

    とりわけ韓国は、1965年に2国間条約である日韓基本条約を結んで「両締約国(日本と韓国)及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及び国民の間の請求権の問題が(中略)最終的かつ完全に解決されたこととなること」を確認したにもかかわらず、「朝鮮人慰安婦」や「朝鮮人戦時労働者」の問題を常に持ち出しているのはご存じの通りです。

    日本のマスメディアは、こういった誤った歴史認識を正すどころか、むしろこれらを肯定する報道をしています。それらが、とくに韓国、中国に利用された結果、日本は領土や補償や外交の問題で不利な立場に立たされ、不当な扱いを受ける事態に立ち至っています。

    ■「GHQのマインドセット」に陥る日本のマスコミと教育

    欧米の公文書館所蔵の歴史的資料に照らしてみれば、このような言説はまったくの虚偽なのは明白です。私はこれらの公文書に基づいてこのような言説が誤りであることをこれまで雑誌論文や著書に書いて明らかにしてきました。新著『日本人はなぜ自虐的になったのか』もその一冊です。

    しかしながら、日本のマスメディアや教育はいまだに前述の戦勝史観の影響下にあるため、国民の多くがGHQの設定したマインセット(教育、プロパガンダ、先入観から作られる思考様式)に陥ったままなのです。

    つまり戦後75年経ってなお「敗戦国」としての贖罪意識を持ち続けている。アメリカは心理戦について戦前、戦時中を通してずっと研究と実践を行っていました。GHQは、その研究成果に基づいて手腕を存分に発揮したわけです。

    ■国民が何十年も嘘を信じ込まされている

    こうした話をすると、「日本人はバカではないのだから、そんな70年以上も前のものに騙され続けることなんてあり得ない」という人がいます。

    リベラル”を自称する人に多いようです(本来のリベラルではない)。こういう人は、先の戦争について少しでも戦勝史観から外れた見方を示す相手に対して「右翼だ」とか「陰謀論者だ」などといったレッテルを貼ります。いかにWGIPの影響が大きいかを示す現象だともいえるでしょう。

    しかし、バカではないのに国民のほとんどが何十年も嘘を信じ込まされている例は多く見られます。現在の北朝鮮、韓国、中国がそうです。北朝鮮では、人民は独裁者を崇拝させられ、彼のいうことを信じ込まされています。異を唱えれば処刑されます。

    韓国では、先の戦争で連合軍の一員として日本と戦って独立を勝ち取ったと政治指導者たちが偽り、歴史の教科書に書いているので、それを信じています。実際には、韓国は1948に独立しているので、1941年から始まった戦争で連合軍の一員になれたはずがありません。1919年から対日独立運動をしていたというのですが、当時の世界のどの国もそう認めていませんでした。

    中国では、毛沢東率いる共産党軍が日本軍を打ち破って中国人民を解放したとし、歴史の授業でもそう教えられているので、圧倒的多数の人々はそれを信じています。しかし、日本軍に勝利したのはアメリカイギリスなどの連合国軍です。そこに蒋介石率いる国民党軍も加わっていましたが、その役割は補助的です。

    ■「そろそろ占領期の呪縛から解き放たれてもよいのでは」

    もうかれこれ70年以上もたっていますが、これら3カ国の大多数の国民は、いまだに虚偽を信じ続けています。彼らの知能が低いということはありません。そう信じ込ませるようなシステムや制度が存在するからです。

    また、特定の宗教指導者をトップとしている国もあります。これらの教義は異教徒にとっては理解しがたいものですし、必ずしも民主主義国家の価値観には合わないかもしれません。だからといってその国民をバカだなどとは決して言えません。

    ただし、日本は戦後の一時期を除けば、一貫して言論の自由が保証された民主主義国家であったはずです。そろそろ占領時の呪縛から解き放たれてもよいのではないでしょうか。

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    有馬 哲夫(ありま・てつお)
    早稲田大学社会科学総合学術院教授(公文書研究)
    1953(昭和28)年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。2016年オックスフォード大学客員教授。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』など。

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    ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/golaizola


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    山本五十六の死は「自殺」? 部下を「人間」として扱った指揮官、最後の行動 から続く

     パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。

     作家・保阪正康さんの著書『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』(角川新書)より、特攻の始まり、そして特攻隊員たちの知られざる本音について一部を抜粋する。

    ◆ ◆ ◆

    特攻の始まり

     初めて戦術としての組織的な特攻隊の出撃は、昭和19年10月25日。海軍の神風特攻隊である。

     この年、各地の守備隊が次々玉砕するなど、戦況は著しく日本に不利となった。軍事指導者たちの無能ぶりからなんら打開策が見いだせないまま、戦争はズルズルと泥沼に陥り、犠牲者をいたずらに増やしていた。その中から出てきたのが「体当たり攻撃」作戦だった。

     まず海軍が、人間魚雷「回天」を開発した。もっとも初期の段階では、回天には脱出装置をつけようとしていたのに対し、陸軍は、もともと明治期から肉弾戦を行っており、航空機による体当たり攻撃戦術も、自然と生まれてくる土壌があった。参謀次長兼航空本部長・後宮淳の言葉に、如実に表れている。

    「突撃は歩兵の精華であり、体当たりは航空の突撃である。これこそが日本陸軍の真の精神である」

     そして、海軍の特攻作戦は、10月5日に第一航空艦隊司令長官に任命された大西瀧治郎によって始められた、と一般にはいわれているが、これには異論が多い。むしろ大西1人にその責を負わせようとして、戦後の神話ができあがったとも思える。終戦直後の昭和20年8月26日未明、大西が官舎で割腹自殺をしたためともいわれているのだ。

    最初の頃は特攻隊に「志願兵」はいなかった

     ところで特攻作戦は、志願兵による参加が建て前だったが、最初の頃は志願者がおらず、困り果てた大西らは、海軍兵学校出身の士官に特攻隊員になることを命令したとされている。その時に特攻隊員となったパイロットの談話が記録として残されている。

    「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させて還る自信がある」

    (中略)

    「僕は天皇陛下のためにとか、日本帝国のためにとかで征くんじゃない。最愛のKA(海軍隠語でKAは妻のこと)のために征くんだ。……」

    (大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店

     このような作戦が実行されること自体、日本社会や組織が疲弊の極みに陥っていることを、現場の兵士たちは肌身で感じていたのである。

     志願制だったか命令だったかは今にいたるまで論争されている。国家としてこのような作戦を行った事実を認めたくない者は、あえて志願だったと主張し、特攻隊員一人一人の殉国の思いを強調するのだ。彼らの崇高なその精神を讃えるのである。だが私の見るところ、志願という名をつけたほぼ強制、あるいは拒めないような状況づくりが行われたというのが本当の姿である。そして戦後の日本社会は、その事実を精査することなしに、ひたすら特攻隊員の精神を讃えるという誤りを犯してきた。

     私はこれまで何人かの存命する特攻隊員に会ってきたが、そのなかで勇躍自ら志願したという者はほとんどいなかった。ある特攻隊員は、このように述懐している。

    「特攻作戦を行う部隊へ志願するように命じられて、その通りにしただけのこと。仲間があんな形で次々に死んでいくとは思わなかった」

     特攻隊員には学徒兵が多かった。

    「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」

     大学生が大学教育を途中で打ち切られて、動員されたのは昭和18年に入ってである。10月21日に、あの有名な雨の神宮外苑競技場での学徒出陣壮行大会が行われた。

     当時、大学生の数は今と比べものにならないくらい数が少なく、同年代の4パーセントほどともいわれた。その意味で彼らは日本のエリート層であったわけだが、そういった彼らが遺した手記が、戦後出版された『きけ わだつみのこえ』などに収録されている。『きけ わだつみのこえ』の最初に、上原良司という特攻隊員の遺稿が出ている。

     彼は慶應義塾大学経済学部の学生で、学徒動員で海兵団に入るが、その後特攻隊になり、昭和20年5月11日に陸軍特別攻撃隊振武隊の一員として、沖縄嘉手納湾で死んだ。22歳だった。

     彼は遺稿に、「私は本来自由主義者です」と書いていた。自由というのは基本的に大事だが、残念なことに今のファシズム枢軸国家の体制は自由とはいえない、とも書いてある。そして最後に、次のように認めた。

    「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」

     一般的には、特攻隊員は何を書いてもいいと言われているが、かといってこの国を批判したり、戦争継続に異議を申し立てることなどが許されていたわけではない。にもかかわらず上原は、自分は自由主義者であり、ファシズムには反対であることをかなり辛辣に表現している。例えばそこには、ドイツイタリアといった枢軸国の敗戦を喜ぶかのような表現さえあるのだ。上原は、どうやってこの遺稿を書いたのだろうか。

     実は報道班員に高木俊朗という人物がいて、明日出撃する振武隊の中にいた上原を見つけ、君、ちょっと何か書いてくれと言って紙と鉛筆を渡した。上原の表情があまりにも思いつめた様子だったからという。すると彼が一晩で書いてこっそり高木に渡したのが、この遺稿なのである。だから、本音が書いてある。

     当時の日本人は臣民意識そのものだったが、この遺書の中では、特攻隊員である上原は明らかに臣民の枠を超えている。光栄ある特攻隊の一員として、与えられた任務はやりますというくだりは臣民としての表面的な装いともいえるのだが、本当は自由主義者であるという自己規定は市民そのものである。彼は臣民と市民の両方を正直に遺稿の中に遺したのだ。

    「今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」

     上原良司の妹は、当時女子医専の学生で、特攻に飛び立つ前の兄を東京の調布の飛行場に訪ねていった。むろん兄が特攻隊員に選ばれていることなど知らない。兄が調布飛行場から他の飛行場へ向かうとの連絡が入り、慰問に赴いたのだ。その時、兄の部隊の仲間五、六人が、上官がいない場で雑談を交わしていて、彼女はそれを聞いていたのだが、なんだか妙な雑談をするなと思ったという。そして寮に帰ってすぐにメモに書き残した。私は、上原の遺稿に青年期からふれていて、感動を覚えていた。

     それゆえに上原の故郷である長野県のある町を訪れて、医師である妹にも話を聞いてきた。その時のメモも見せてもらった記憶がある。

     そこには次のような会話があった。

    「ああア 雨降りか。全く体を持て余すよ」

    「よし、俺が新宿の夜店で叩き売ってやらあ」

    「その金で映画でも見るか」

    「お前の体なんか二束三文で映画も見れねえや」

    「それより俺達の棺桶を売りに行こうや。陸軍省へ行ったら30万円には売れるぞ」

    「30万円の棺桶か。豪勢なもんだろう」

     (中略)

    「ああア、だまされちゃった。特操なんて名ばかり良くてさ。今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」

     (中略)

    「向うの奴ら(アメリカ軍のこと)何と思うかな」

    「ホラ今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」(この引用は、上原良司、中島博昭『あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ 上原良司』から、昭和出版)

    「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」という自嘲

     彼らはいつ出撃するかわからない。この時も雨が降っていて出撃地の知覧に向かう予定が延びていたのである。そして、特操なんかに志願しなきゃよかったと言っている。「特操」というのは、「特別操縦士官」のことで、特攻隊員を意味する。そのことを詳しく知らなかったとの告白もされている。「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」というのは、アメリカ兵からはこのように見られているのだろうとの自嘲である。彼らは自他を客観的に見つめる目をもっていた。それを、この言は物語っている。私は特攻隊員がこのような話を交わしていたことを、もっと具体的に今の時代の者は知っておくべきではないかと思う。

     実際に特攻隊が出撃する前に、実はこういった会話を交わしていることは、当時の文献、資料などでは一切語られていない。

     上原の妹は、この会話を奇妙に思ってメモしたが、戦後もしばらくは人には見せないでいた。というのも、特攻隊はお国のために喜んで死んだことになっているのに、実はこんな会話を交わしていたことが知られたら大変なことになる、と恐れたからだ。だから公表されたのは、戦後30年近くを経てからである。

    最後の瞬間の特攻隊員の声を基地で聞いていた

     あまり知られていない事実だが、特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、ときに基地ではその無線をオンにしていたという。

     これは何々機、誰某、これから突っ込みますということを確認するわけで、基地ではその最後の瞬間の特攻隊員の声を大体は聞いていたのだ。そして、その声で戦果を測っていた節もあった。

     戦時下で、芙蓉部隊という航空部隊の隊長だった美濃部正という指揮官が、戦後40年近くたって、戦時下の日記やメモなどを含めて私家版の回想録をだしている。もっとも刊行されたときは病死していたのだが、そのメモによって私は意外な事実を知らされた。美濃部は海軍の指揮官として、特攻作戦に一貫して反対した。

    「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」

     これがその理由だった。

     私は何度か美濃部を取材していて、教えられることが多々あった。手紙の交換も続けたが、そのような当たり前の感覚を持っている海軍軍人がいることに、密かに安堵感を覚えた。

    「海軍の馬鹿ヤロー!」といって死んだ

     その美濃部のメモに、特攻隊員たちの無線を受けている無線技師からの報告内容が書かれているのだが、そこに次のようにあった。

    「今日の無線の中に、『海軍の馬鹿ヤロー!』といって死んだ特攻隊がいる。絶対極秘。いかなることがあっても海軍に漏らしてはいけない。」

     これは何を意味するのだろうか。特攻隊員の中には、アメリカ軍の空母に体当たりしていくときに呪いの言を吐いていった者が少なくないということだ。このような事実は、一般に明らかにされていない。しかし、もし明らかにされたなら、そこには鋭く軍事指導者や参謀を批判している内容が少なくないことがうかがえるのだ。

     特攻隊員の無線の記録は、必ず資料があるはずなのだが、今に至るも一切公開されていない。あるいは昭和20年8月15日の段階で燃やしてしまったのかもしれない。

     私は当時の無線技師の人たちから教えられたのだが、彼らの言では、誰もが「天皇陛下万歳」と叫んで死んだわけではない。泣いていた人もいたし、「おかあさん」と叫び続けた者もいるといい、悲しい話が数多くあると証言していた。

     それが本当の姿なのであろう。それを正直に伝える、それこそが史実を伝えるということなのだ。あえて言えば、それを太平洋戦争を見つめる新しい視点に据えなければいけないということだ。

    ある整備兵の告白

     さらに、10数年前のことだが、千葉で講演した時の話を紹介したい。

     講演が終わって、私が控え室に戻ったら、娘を連れた80代とおぼしき高齢者が、どうしてもあなたに話があるので、今日は病院にお願いして外出届けを出し、娘とともに来たと言った。そこで別室に行って二人きりになると、その人は、私はもうこの後そんなに長く生きないだろう、だから、これまで誰にも言ったことがないことをお話しするので、記憶にとどめておいてほしい、と話を切り出した。

     その人は学徒兵で、戦時下では特攻隊員の乗る飛行機の整備兵をやっていたそうだ。特攻隊の飛行機が一機飛び立つには、3、4人の整備兵が必要で、毎日飛行機の整備をしていた。当然同じ学徒兵だったこともあり、親しく会話を交わすことになった。初めは他愛ない話だったが、次第にお互いに心の中を明かすようにもなった。ある時彼が整備していた飛行機の特攻隊員に出撃命令が出された。この特攻隊員は特攻機に乗る直前に失禁して、そして失神状態になってしまったという。別にこれは珍しい話ではなくて、そういう話が数多くあったそうだ。その特攻隊員は生真面目でおとなしい男だったのだが、整備兵たちは彼の顔を叩いて目を覚まさせて、むりやり特攻機に乗せたという。すると特攻機は、反射的に飛び立ったそうだが、その隊員はとても沖縄まで飛んでいく状況ではなかったという。

    「途中で、鹿児島湾のとこらへんで不時着したと思いますよ。たぶん彼は、この理不尽な命令に戸惑いながら、最後は自殺同然に海に突っ込んでいったと思います。私たちが彼を殺したようなものです。そのことを私は死ぬまで伏せておこうと思ったのですが、あまりにも彼に申し訳ない思いがするし、私も嫌がる彼を乗せて送り出したとの罪の意識を持って生きてきました」

     その高齢者は述懐し、生きている間に話しておきたかったと言うのであった。

     その後、私が記録を調べてみると、この特攻隊員が沖縄まで飛んでいったとの記録はなかった。

     頬を叩いて特攻機に乗せたこと、それはこの元整備兵が抱え込んでいる一生の心の傷だったのだ。皇軍の勇猛な兵士とよく言われるが、じつはそうではない、ということを知る必要があるエピソードではないか。

    戦後自殺した作戦参謀は何人もいた

     拙著にも引用した『ねじ曲げられた桜』の著者の大貫恵美子氏は、アメリカ在住の学者で、私と同世代の研究者なのだが、この本の中で特攻作戦をアメリカの視点で分析している。この中で彼女は、特攻作戦とこの作戦を進めた軍事指導者たちに対して許容するものがない、と激しい筆調で批判をしている。

     その点、私と世代が近いにもかかわらず、幾つかの点で違うなと思うのは、私は百パーセントの特攻批判はできないとの立場である。というのも、この作戦を選ぶというところに、戦時指導した参謀たちの意識のどこかに、日本的文化があったのではないだろうか、と考えているからである。最後の段階では思考を放棄して、情念だけで事態を捉える。あるいは感性のみで現実に向き合おうとする。その習性を私たちは持ち合わせているのではないかと、自省することが必要なのである。

     前述の、特攻作戦を進めたと言われている大西瀧治郎は、終戦直後に自殺している。大西以外にも、死んで責任を取るといって、戦後自殺した作戦参謀は何人もいた。

     また、特攻隊を送り出したある隊の隊長は、自らは死ぬ機会を失ったが、戦争が終わったあと、彼の部下で特攻隊員として逝った学徒兵の家を一軒一軒訪ねて、お焼香して歩いたという。その慰霊をすべて終わった昭和22年、彼は千葉県で列車に飛び込んで自殺した。

     なぜ彼は列車に飛び込んだのか。それは、列車が機械だから、鉄の塊だから、と遺書に書いてあったとの説がある。特攻隊として部下を送りだしたことのつらさを自分が味わうには、列車に飛び込んで散るしかないと思ったのであろう。

     もちろん、戦後になって知らぬ顔して逃げている人間もいる。だが、死という責任を取った人に対しては、私は批判の矛先を鈍らせるべきだと思う。死ねばそれでいいのかと、よくいう人がいるが、やはり死ねばいいのである。相手を十死零生で死ぬ命令を下した責任者は、確実に自らも死ななければならない、それは当然のことだと私は思っている。

     その当たり前のことをしないで逃げた人、自分を免責にするために、戦後、特攻をかなり曲解して伝えている人たち。こういう人の主張を私たちは徹底して否定しておかなければならない。あえていえば、許してはいけない。

     特攻隊の問題は、基本的には私たちの国の文化とか、責任の問題とか、そういったものを内在している。それを知って、100年先の我々の子孫にメッセージを残しておかなければならないというのが、私の考えである。そうすることで、「人間を武器に使った」時代に生きた責任を果たすことになると考えているからだ。

    「聖戦完遂」を叫んだ東條英機……敗戦後に見せた「躊躇なく『私』を選ぶ精神性」 へ続く

    (保阪 正康)

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     NHK広島が今春に始めたTwitter企画「1945ひろしまタイムライン」が話題になっている。「もし75年前にSNSがあったら」というコンセプトで、同局のスタッフ1945年に広島で生活していた実在する3人の日記を基に、3人が75年前のちょうど同じ日につぶやいていそうな内容を再現したツイートを投稿している。

    【その他の画像】

     Twitter上に開設したアカウントは、広島の新聞社で記者をしていた「一郎さん」、広島市に疎開していた「やすこさん」、中学生の「シュンちゃん」の3つ。8月6日には午前8時ごろから、3人が原爆を受けたの様子を「先ほどの母親はもう動かなかった」「空は嫌な色に曇っている」「全滅 広島が?」といったツイートをそれぞれリアルタイムに更新している。

     75年前のつぶやきを再現するため、NHK広島のスタッフは当時の日記や資料を調査した他、日記に書かれた内容を実際に体験した。料理を再現したり日記に書かれた道を実際に歩いたりして「この人だったらどんなことを投稿するか」を想像したという。

     ツイートの内容は日記を書いた本人の証言を尊重しているため、本人が事実を間違って認識していた場合など、歴史的に正しい内容ではない可能性もあるとしている。

     ツイートは劇作家の柳沼昭徳さんが監修。柳沼さんは企画について「広島は平和や原爆、核廃絶といった言葉とともに世界中の人々に記憶されてきたが、(原爆を体験していない)次の世代の人々が、これらの言葉に実感を保ち続けることは、そう簡単なことではない」と、当時の空気感を伝えたいとしている。



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    (出典 image.itmedia.co.jp)



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     中国メディア・騰訊網は6日、「ドイツは敗戦後に2つの国に分裂する運命をたどったが、どうして日本は国の分断から逃れることができたのか」とする記事を掲載した。

     記事は、人類史上最大規模の戦争となった第2次世界大戦により、世界の構図に非常に大きな変化が起き、米国とソ連による二極化へと進んでいったと紹介。一方、戦争に敗れたドイツは非常に大きな代価を払うことになり、米ソ対立の影響により東ドイツ西ドイツに国が分断され、1990年にようやくベルリンの壁が取り払われ、統一が実現したと伝えた。

     一方で、同じく敗戦国となった日本は専ら米国の占領下に置かれることとなり、ソ連を主とする共産主義陣営と米国を主とする資本主義陣営の間で分断されることなく現在に至ったとし、ドイツと日本で「明暗」が分かれた理由について考察している。

     まず最初の理由として、終戦直前に対日宣戦布告したソ連は海軍力が弱かったこともあり、対日戦争において米国ほどの大きな役割を果たさなかったため、日本を占領する資格を持たないと認識されたことを挙げた。

     次に、米国が共産主義陣営のソ連と対立を深めるなかで、日本を重要な「駒」と位置付け、日本の占領政策を巡りソ連に対して強硬な姿勢を崩さず、頑として譲歩しなかったこととした。

     そして、最後の理由として、日本はドイツとは異なり終戦時点でなおも本土以外の「領地」を残していたため、米国との交渉の中でこれらの地域を手放すことで本土の安全を守ることに成功したと論じた。

     記事は最後に、戦後にそれぞれ異なる道を歩む結果となった日本とドイツは、戦争に対する反省や謝罪の態度にも差が出たとし「ドイツは過去を真摯に反省している一方で、日本は自らの過ちを真剣に反省していない」との不満をこぼして結んでいる。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)

    どうして終戦後の日本はドイツのように2つに分断されずに済んだのか=中国メディア 


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     つけもの、汁物、手前みそ、塩、玄米2合――。社会学博士が作った「江戸時代のごはん」がなかなかの破壊力で話題を呼んでいます。昔の人すごい……!

    【画像で見る:豪華になった「江戸時代ごはん」】

     投稿者は中部大学人文学部コミュニケーション学科の助教・おうこうはん(@SUSHIwanghaofan)さん。「いつも『江戸時代の食事がね』みたいなことを授業でしゃべってるんですけど、諸事情で自分でつくる必要がでてきてつくってみたんですよ。玄米2合はやべえっすね」と、自分で作った“江戸時代のごはん”を画像付きで紹介したところ、5万件を超える“いいね”が寄せられました。

     お米1合が大体お茶碗2杯分と言われるので、玄米2合だと4杯分。重量にして1036グラム。これを食べきるためにつけものが大量に必要だということがビジュアルからしっかり伝わってきます。

     またおうこうはんさんによると、「豪華なときは、ちょっと魚がつきます」とのこと。尾っぽに近い部分の焼き魚ちょびっとだけ添えられたその姿に、おうこうはんさん自身は「よけいに悲しみが出ますよね」とコメントしています。

     このツイートには、「茨城の小作の子孫ですが、二代前まではほぼこれに近い食生活でした。父の実家は、農作業の途中のおやつも米を食べていたようです。『お中飯』と呼んでたそうです」「私は神奈川の貧農の子孫ですが、戦前の主食は雑穀米で白米を食べるのは1日と15日だけだったと叔母に聞いたことがあります」と農業に関係する人からの声や、「当時の飛脚の皆さんは『とにかく飯食って、とにかく走る』という生活で、カロリーが完全に右から左に抜けてったような感じだったそうで……これ見ると米喰わんとやってられんよなぁと思うw」と博識なコメントも寄せられています。

     今回作ったご飯についておうこうはんさんは「当然ながら2合の玄米を食べるのはさすがにぼくでもきついので、残ったご飯はおにぎりにして明日の朝ご飯にしたり、冷凍して後日食べます」と大量に残った玄米の画像を添えて報告。ラム肉丼などのアレンジレシピを作り、何とか4食かけて食べきったそうです。

    画像提供:おうこうはん(@SUSHIwanghaofan)さん

    (Kikka)

    おうこうはんさんが再現した江戸時代のごはん


    (出典 news.nicovideo.jp)


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