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    歴史

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    ストーンヘンジ

    巨大環状竪穴群の発見 / Pixabay

     英国の巨大遺跡「ストーンヘンジ」からわずか3キロのところで、4500年前のストーンサークル(巨大環状竪穴群)が見つかった。

     この巨大環状竪穴群は、直径10メートル以上、深さ5メートル。少なくとも20はあり、ストーンヘンジと関連する古代集落跡ダーリントン・ウォールズのまわりに円を描くように配置され、直径2キロ以上のストーンサークルを構成している。

     これまでイギリスで発見された先史時代の構造物の中で最大だという。

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    ストーンヘンジとつながる神聖な領域への境界線か?

     この巨大環状竪穴群は4500年以上前の新石器時代に建造されたと推測されている。ストーンヘンジが季節や時間、夏至と関連して作られているのに対し、この竪穴はストーンヘンジとつながる神聖な領域への境界線として役割があったのではないかという。

     この研究プロジェクトリーダーのひとり、ヴィンセント・ガフニー博士は、これは、前例のない発見で、極めて重要だとしている。

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    image by:University of St Andrews

    古代人の高度で複雑な社会が浮かび上がってきた


     この調査は、英国のセント・アンドルーズ大学、バーミンガム大学、ウォーリック大学、グラスゴー大学、ウェールズ大学トリニティ・セント・デイビッドの共同研究だ。

     自然保護や歴史建造物保全に取り組むナショナルトラストが、ブラッドフォード大研究開発資金の援助を受けて、ダーリントン・ウォールでの作業を支援している。

     セント・アンドルーズ大学地球環境科学のリチャード・ベイツ氏は言う。


    遠隔調査と丹念なサンプリングで、予想外に遥かに複雑な社会がこんな昔に存在したことがうかがえます。

    明らかに高度に発達した社会の習わしは、当時の人々が自然の出来事といかに調和して暮らしていたかを示していて、現代のわたしたちの想像以上でした


     セント・アンドルーズ大のティム・キナード氏は、堆積物の内容は、これまで知られていなかった魅力あふれる環境情報の宝庫で、最新の技術によって、4000年間のストーンヘンジの風景を詳しく語ることができると言う。

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    image by:University of St Andrews

     ナショナルトラストの考古学者ニック・スナシャル博士は、まさに驚くべき発見だと語る。
    ストーンヘンジを建設した人たちが生活し、祝祭を催した場所として、ダーリントンウォールは、ストーンヘンジのもっと広範な背景を説明できるカギなのです。

    このすばらしい発見は、新石器時代のご先祖たちの生活や信仰について、新たな洞察をもたらしてくれることでしょう。

    "ストーンヘンジの隠れた風景"を探る研究チームは、最先端の考古学フィールドワークと古き良き探偵捜査技術を組み合わせて、とてつもないこの事実を明らかにし、ストーンヘンジの物語にまったく新しい章をつけ加えたのです


     この快挙は、今年の夏至のすぐ後に発表されたが、毎年、ストーンヘンジで行われている夏至を祝うイベントは、このコロナ禍のため、オンラインで行われた。

     一般客はまだ、紀元前3000年前の素晴らしい遺跡を訪れることができない状態となっている。


    Astonishing' Stonehenge discovery offers new insights into Neolithic ancestors.
    References:newatlas / bradford/ written by konohazuku / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52292144.html
     

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    ストーンヘンジ周辺で4500年前の驚異的な巨大ストーンサークルが発見される


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    第2次世界大戦中の「731部隊」をめぐる調査研究を進めている滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授らは19日、1950年から1951年の間に作成された「関東軍防疫給水部部隊概況」と題する公文書を発見した。海外網が伝えた。
    公文書には、侵華日軍第731部隊支部が「終戦まで、主に細菌の研究および生産に携わる」との記述があり、同支部で細菌を製造していた事実が初めて裏づけられることとなった。西山氏は、「このほか、公文書には、731部隊隊員の証言も含まれており、歴史を検証する上で極めて意義深い資料である」としている。(提供/人民網日本語版・編集/KM)

    第2次世界大戦中の「731部隊」をめぐる調査研究を進めている滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授らは19日、1950年から1951年の間に作成された「関東軍防疫給水部部隊概況」と題する公文書を発見した。


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    マヤ暦

    マヤ暦の予言する世界の終わり2020年?/iStock

     オカルト界隈では10年ほど前、マヤ暦が2012年の世界滅亡を予言しているという噂が真しやかに囁かれ、世間を騒然とさせたことがある。

     もちろん世界は滅びなかった。だから我々がここにいる。だが、それを2020年と読み替えると突如として辻褄が合ってしまうという新説が登場した。

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    マヤ暦には8年のズレがあるという新説

     この新説の出どころは、パオロ・タガロギンという科学者による次のようなツイートだ(現在タガロギン氏のアカウントは非公開となっている)

    ユリウス暦に従うなら、今は2012年にあたる。それをグレゴリオ歴に換算すると、年に11日短くなる。グレゴリオ暦1752年から2020年269年だと、2948日の計算だ。2948日 ÷ 365日 = 8年だ

     8年という暦のズレは、マヤ暦(正式には「長期歴」)にも当てはまるというのだ。

    マヤ暦の終わりは地球の終わり?

     マヤ暦は2012年12月21日で終わっている。その意味は世界がその日に終わるという予言であると、当時の一部の人々は真剣に憂慮した。

     多くの学者によって、その予言は単なる誤解であると説明された。マヤ暦が2012年で終わっていたとしても、それは世界の終わりを告げるものではなく、無論マヤの伝承が伝えるように人類にとって新しいサイクルが始まる世界の創造を意味するものでもない、と。

     しかし、8年のズレのせいで、我々は今年世界が終わる可能性に再び怯えなければならなくなってきた。もしかしたら、コロナパンデミックや世界各地の抗議活動は、世界が終わる前兆なのかもしれないとも思えてくる。

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    Pixabay

    実際にはタガロギン氏の勘違い


     2020年滅亡説を唱えたタガロギン氏は、テネシー大学で植物学を専門とするれっきとした科学者だ。彼の関心は多岐にわたっており、さまざまなテーマについて考察を重ね、それをツイートしている。

     ただ植物学者である彼は、マヤの専門家が昔からグレゴリオ暦をベースに、マヤ暦を解釈してきたことまでは知らなかったようだ。

     ローマ教皇グレゴリウス13世によってユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦されたのは1582年のこと。

     それ以降もユリウス暦は利用されていたが、1752年にイギリスグレゴリオ暦を採用したときに、改暦によるズレは調整されている。

     さらに言うなら、マヤ暦の単位もマヤ文字から推測されたものに過ぎない(20日 = 1ウィナル(月)、18ウィナル = 1トゥン(年)、20トゥン = 1カトゥン、20カトゥン = 1バクトゥン)。

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    Pixabay

    2012年人類滅亡説の発端


     マヤ暦が2012年12月21日に世界が滅亡することを予言しているという説は、1957年にマヤ学者で天文学者のモード・ウースター・メイクムソンによって初めて言及された。

     「13バクトゥン(1872000日)の大周期の完了は、マヤ文明にとってきわめて重要なものだったろう。」

     この話は、1966年にマヤ考古学者マイケル・D・コウが次のように述べたことで、さらに大袈裟なものとなった。

    13番目の最後の日に、世界の堕落した人々とあらゆる創造物をハルマゲドンが襲う。そして(中略)我々の現在の宇宙は滅亡し(中略)長期暦の大循環は完了する

     どちらも憶測に基づくただの解釈に過ぎない。だが世界の終末に取り憑かれた人たちにとって、そのようなことはどうでもよく、すぐこの薄気味悪い予言に飛びついた。

     なお、コロナによる都市封鎖でお家時間がたっぷりの科学者たちは、様々な計算やら思索やらを行っている。人間だもの、間違いもあるが、もしかしたら世紀の大発見につながる可能性も秘めている。

    References:express / mysteriousuniverse/ written by hiroching / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52291710.html
     

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    マヤ歴が予言する世界の終わりは2012年ではなく2020年だったとする新説が登場、果たして本当なのか?


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     新型コロナウイルスの感染拡大では、当初一部で「バイオテロでは?」といううわさが流れた。5月5日日経新聞朝刊には、イギリスエコノミスト誌の「生物兵器、高まる懸念 防衛後手」という記事が載っている。そこでは、「生物学的な脅威に対して、米経済と世界経済が脆弱なことが明らかになった。このことは、もし生物兵器による攻撃を受けたら、その打撃はとてつもなく大きくなることを示している」というアメリカの研究者の談話を紹介している。

     今回はっきりしたのは、感染症の怖さは、病状が悪化して死に至ることもあるだけでなく、社会を不安と恐怖に陥らせ、人々を疑心暗鬼にさせて自粛と萎縮で心身に大きなダメージを与えること。そして、同じようなことが84年前の日本で起きていた。

    死者は44人 静岡県浜松市で起きた「運動会の大福中毒」

     空前の出来事なのに、記録にも人々の記憶にもあまり鮮烈に残っていない。歴史の中にはそんな事件や事故もある。静岡県浜松市で起きた旧制浜松一中の運動会での食中毒事件などは、その典型だろう。「浜松市史(三)」によれば、大福餅を食べて発症した人は実に2296人、死者は44人というすさまじい規模。「浜松市民を混乱と恐怖に陥れ」「新聞、ラジオなどを通して全国に報道され、国民の耳目を驚かした」が、東京や大阪から離れた場所だったことと、直後に発生した「大事件」に話題を奪われたからか。しかし現場には、のちに細菌戦部隊として知られる陸軍「七三一部隊」のトップとなる人々らが大挙して駆けつけていた。

     奇妙なことに、警察の正史である「静岡県警察史」の事件の記述もわずか6行で「1400人が中毒症状、38人死亡」とあるだけ。浜松市史も記述は簡略。浜松一中の後身である県立浜松北高の「浜松北高八十年史」が、当時の「校友会誌」の記述も引用し、毎年恒例の運動会の模様から具体的に記述している。

     浜松一中は1894年開校。5年制で計20クラス。生徒数は約1000人だった。「天気晴朗、青空には一片の雲もなく、浜一中健児の意気、いやがうえにも上がった」「生徒も教師も最大のリクリエーションを楽しみ」……。ハイライトは「三方原合戦」を模して、剣道着と面を着けた生徒が2組に分かれて戦う「野仕合」。「運動会は最高潮に達するのである」と当時の生徒の1人は回想している。

     解散前に生徒は、恒例の6個入り1袋の餡(あん)餅を受けとり、帰路に就いた。翌日の11日は月曜日で代休。校友会誌の「経過概要」には「11日午後5時ごろに至り、本校生徒及びその家族に中毒患者あることを医師及び家庭の両方面より知るを得たり」とあるが、「八十年史」によれば、同中の日誌には、11日午後3時ごろ、浜松市田町の医院から学校へ「5年生3人が中毒の疑いがあるが、心当たりは?」と電話してきたのが最初だという。午後5時ごろ、宿直の教師が校長に連絡して大騒ぎになった。

    陸軍の防疫研究室も猛スピードで原因究明を進めた

     七三一部隊研究の第一人者である常石敬一・神奈川大名誉教授の著書「戦場の疫学」(海鳴社)はこの事件について詳しく記述している。

     同部隊の母体となったのは陸軍軍医学校「防疫研究室」。「七三一部隊などは実戦部隊で、防疫研究室が後方の司令部だった」(同書)。「当初は『戦役研究室』の名称で軍医学校防疫学教室(防疫部)に付属するような形だったが、いつの間にか全体を乗っ取る形になった」と常石氏は言う。「石井(四郎・元軍医中将)が全体を指揮しており、敗戦まで防疫研究室と防疫学教室は存在した」。同書によれば、その防疫研究室は浜松の事件に並々ならぬ関心を示し、石井をはじめ、細菌の専門家チームを現地に派遣。猛スピードで原因究明を進め、チームメンバーが多くの報告書を残している。そこからも事件の動きが見える。ちなみに「戦場の疫学」は死者を46人としている。

     同書によれば、「生徒の約3分の1が高熱、下痢、嘔吐などの症を惹起しあるも、右は三好野の大福餅による中毒ならん」と、浜松一中校長から浜松署に通報があったのは5月11日午後8時午後11時ごろには、浜松署から静岡県に電話で報告があった。当時の緑川・県衛生課長がのちに医学雑誌の座談会で語ったところでは、技師を現地に派遣。12日午前5時ごろから大福餅の検査を開始した。

    「三百名中毒 濱(浜)松一中で 四五十名重態」。初報となった1936年5月12日付東京朝日(東朝)朝刊の扱いは社会面2段だった。「【浜松電話】浜松第一中学校では10日、運動会を催し、大福餅6個ずつを全校生に配ったが、これを食した生徒、教員に中毒症状を起こす者続出。11日夜までに教師谷崎延、桜井実、伊藤豊次郎3氏及び4年生富田忠夫(17)ほか生徒4、50名の重態者を出した。午後11時半、学校当局の発表によると、中毒者300名に上る見込みで、あるいはもっと増加するかもしれないと言っている」。この時点で既に大規模食中毒だが、事態はその後エスカレートする。

     5月12日に登校してきた生徒は338人で、欠席が662人。「無理して登校した生徒が85人おり、単なる中毒事件にとどまらず、重大なる状況に驚いたのである」(八十年史)。5月13日付東朝夕刊(12日発行)は「浜松の中毒患者 千名に達す 兵士などにも波及」の見出し。「12日朝までに浜松一中関係748名の中毒者と6名の死亡者が判明したが、一中のみでなく、市内の各中等、小学校児童らにも及び、各校10名内外。さらに浜松飛行第7連隊兵士26名、高射砲第1連隊兵士5名、浜松飛行学校生徒2名も中毒し、総数1千名を超えることが分かった」。被害は中学の生徒、教師とその家族だけでなく、陸軍兵士にも及んでいた。 

     当時陸軍軍医部衛生課員兼軍医学校防疫学教室教官の二等軍医正で、現地調査に従事、のちに関東軍防疫給水部、通称七三一部隊の第2代部隊長となる北野政次・元軍医中将の回想によると、東京の陸軍軍医部に連絡が入ったのは5月12日午後3時。「浜松部隊に食中毒患者約40人発生。うち20数人入院。発熱40度に達する者あり。重症者多数。兵士が5月10日に外出し、三好野で大福餅を食べたことが原因」という名古屋の陸軍第3師団軍医部からの電話だった。急を要するので、電報で浜松衛戍病院に検体を送付するよう依頼。13日午前6時、到着した検体の分離培養を始めた(「戦場の疫学」)。

    大量殺人事件? 何者かが毒物を混入させたのか

     さらに前述の東朝の初報記事には「大福餅を納入した同市鍛冶町76、菓子店兼喫茶店三好野こと木俣きぬ方の調査と、大福餅に用いた餡(あん)及び打ち粉の分析試験を行っている」とある。興味深いのは、この時点で早々と原因説を打ち出していること。「原因は緑青」の見出しで、「餡(小豆と隠元豆)、皮(餅)、打ち粉(デンプン)など分析の結果、異常なく、三好野で銅鍋を使用し、その銅鍋に発生する緑青によるものと推断されるに至った」とある。緑青原因説はその後も各紙に登場する。確かに1960年代までは緑青は猛毒とされていたが、一体どこから出た情報だったのだろうか。

     そして5月14日付夕刊(13日発行)。東朝は事件の拡大を社会面トップで大々的に報じた。「凄惨!毒魔蹂躙の濱松 相次ぐ死者・已(すで)に三十八名」の横見出し。「疑問は遂に重大化 猛毒混入の怪事実 誤入か・計畫(画)的か」「激毒を裏書する症状」。これらの見出しで分かるように、報道は一気に、何者かが毒物を混入させた犯罪の疑いが濃いとの論調に。しかし、犠牲者の中学生の遺体を解剖した名古屋医大の小宮教授は「何事も申し上げられません」としか答えなかった。

     同じ5月14日付夕刊で東日は“容疑者”を登場させている。「恨みの毒物混入? 元雇人留置さる」の見出し。「(浜松検事局は)13日払暁に至り、問題の大福餅を作った浜松市鍛冶町、菓子商三好野の元雇人有田寅雄(27)=仮名=を有力怨恨関係者として検挙、留置した」。記事によれば、この男は4月下旬に臨時雇いとして働き始めたが、「泥棒のぬれぎぬを着せられた」と憤慨。「4月30日、突然暇をとり、『この後始末は自分でやる』と放言していたといわれている」。また、「鉱物性毒物と決定」という見出しで、犠牲者の遺体を解剖した小宮教授が死体検案書を検事局に提出したと報じた。「鉱物性毒物であることは決定したが、その毒物が何物であるかは目下判然とせぬ」と。同記事によれば「13日午前11時までに判明した中毒患者1596名、うち重症患者100余名、死亡者36名に達した」という。数字は終始各紙バラバラだ。

     5月14日付朝刊。東朝は「第三師団軍醫(医)部 濱松市へ急行 刑事八方へと飛ぶ」の見出しで、第三師団が軍医正ら18人を現地に派遣したことを報じた。面白いのは「浜松警察署では、当初以来刑事眼をもって事件に臨み、13日のごときは朝来異常の緊張を示し」、参考人として元コックほか13人を取り調べたと書いていること。別項で齋藤・静岡県知事が内務省へ報告に向かう列車の中で「毒物混入らしい」と語っていることと併せ、大量殺人事件との見方を強めて捜査と報道が過熱したことがうかがわれる。

    「過失ではないかとの説が有力だ」

     しかし、同日付朝刊の東日は「急派の本社救護班 直ちに活動開始」の見出し。「東日医局の医学博士」ら医師5人と看護師らを派遣したという“自社ネタ”だ。千人規模の患者の発生で、現地は医師不足に陥り“医療崩壊”が起きていた。新聞社に「医局」があったのにも驚く。ただ“本筋”の事件報道は朝日とだいぶトーンが違う。三好野の作業工程を紹介して「毒物混入のため外部から侵入することは非常に困難とみられている」と報道。齋藤知事の談話も「過失ではないかとの説が有力だ」となっている。同じタイミングで取材したはずなのに、どうしてこれだけニュアンスが違うのか。

     注目は「軍醫学校でも急派」の小見出しの短い記事。「東京陸軍軍医学校では、浜松衛戍病院から13日早朝、大福中毒で収容中の兵士患者の吐瀉物及び食い残りの大福餅を送って来たので、防疫学教室の平野教官、薬学教室の草味教官は毒物の検出に努めている。一方、同日午後11時20分東京駅発列車で防疫学教室・北野二等軍医正、内科学教室・岡田三等軍医正は浜松に急行した」。「草味教官」とは、七三一の資材部第一課長を務める薬剤の専門家・草味正夫だ。

    「戦場の疫学」によれば、実は北野が浜松に向かう5月13日午後11時すぎの時点で、検体からゲルトネル菌の免疫血清によく凝集するコロニー(単一細胞の塊)を発見していた。14日朝、浜松に着いた北野は、衛戍病院で患者の状態を見たうえ、現地の検査結果からも同菌による中毒と確信。午後4時、上司を通じて軍医学校長らに報告した。新聞や捜査当局がまだ毒物混入事件の見方を残していた段階で、既に原因に結論を出していたことになる。

    丸1 日以上早く軍が「ゲルトネル菌による中毒」と断定できた理由

     日本では浜松の事件以前に1931年5月、神奈川県での結婚披露宴に出されたカマボコで90人が発症。うち8人が死亡した事件をはじめ、ゲルトネル菌による食中毒が7回起きていた。うち陸軍では1933年に糧秣本廠で、1935年には京都府鳥取県での演習で発生。中でも1935年10月、歩兵39連隊(姫路)が鳥取の小さな村で演習中、地元民が開いた歓迎宴会でタコ、竹輪、カマボコ、サバなどによる食中毒が起きた。兵士54人が発症、うち4人が死亡。民間人からも100人以上(うち死亡1人)の患者が出た。このときは、糧秣本廠での事件以後、準備していたゲルトネル菌の反応用血清が原因究明に役立った。そうした経験から、北野は浜松衛戍病院を訪れた際にも血清を持参。緑川・静岡県衛生課長に渡した。

    「それにしても非常に素早い対応である」と「戦場の疫学」は評し、それは浜松の部隊が陸軍飛行第7連隊だったためかもしれないと書いている。1925年の宇垣軍縮を逆手にとって誕生した、当時日本軍では唯一の重爆撃部隊を持つ「虎の子」の部隊。搭乗員を養成する飛行学校も併設されていたが、今回の事件では、その生徒からも被害者が出ていた。万が一、隊員らを狙った犯行だったら、という危惧があったのは間違いない。

     一方、静岡県衛生部の検査では、ヒ素、銅、青酸の化合物の反応は認められず、その他の毒物全般を4昼夜にわたって検査したが、金属化合物有機物も検出されなかった。そして患者4人の糞便を培養して検査したところ、コロニーを発見。ゲルトネル菌の血清の必要を感じたので15日朝、浜松衛戍病院から入手。同日午後、定量凝集反応試験を実施し、ゲルトネル菌と決定した。つまり、県にはゲルトネル菌と確定するための反応試験に必要な血清がなく、軍から譲り受けたということ。北野が持参したものだったのだろう。軍の原因確定が県より丸1日以上早かったのは、血清を保有していたかどうかの差だった。 

    静岡で起こった“ある食中毒事件”に「七三一部隊」がこだわり続けた理由とはなんだったのか へ続く

    (小池 新)

    ©iStock.com


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     遣隋使や遣唐使の存在が示すように、日本は古代中国から多くの事物を学び、取り入れてきた。では、隋や唐の時代の中国人たちは当時の日本についてどのように見ていたのだろうか。

     中国メディアの百家号は3日、「唐の時代の中国人の目に映っていた日本の姿」というタイトルの記事を掲載し、古い文献にある日本についての記述を通じて、当時の中国人が日本をどのように認識していたのかを考察した。

     記事は、日本と中国は一衣帯水の隣国同士であり、二十四史の1つであり、3世紀ごろに書かれた歴史書「三国志」にも日本に関する記述があることから、中国人はかなり古くから日本の存在を知っていたと強調する一方で、日本に対する理解は「一向に深まることはなかったのが現実である」と指摘した。

     続けて、隋の時代になると隋の初代皇帝である楊堅が裴世清を使者として日本に派遣したことが「隋書」に記されていると紹介。一方、当時の日本は文化がまだまだ立ち遅れていて、「文字を持っていない」との記述が見られると伝えた。確かに日本が朝鮮半島経由で漢字を本格的に導入し始めたのは5世紀から6世紀にかけてと言われているようだ。記事は「隋王朝までの中国人は、日本について未開の立ち遅れた国として認識し、重視していなかったようだ」と論じた。

     一方、中国が唐の時代を迎える頃には、「日本は大きく発展、進歩していた」ことが、唐の時代の著作物から分かると指摘。二十四史の1つである「旧唐書(くとうじょ)」にある記述からは、日本人は「文字を尊重し、勤勉で、学習を好む民族」に変化していたことが読み取れるとし、こうしたイメージは遣唐使として唐に渡り、唐王朝の高官となった阿倍仲麻呂の存在が大きいようだと論じた。

     また記事は、日本人は宋の時代になっても多くの良書を求めて、中国を訪れていたと伝え、宋の時代の政治家であり、学者である欧陽脩は「日本刀歌」で、「中国人は自らの優れた文化を自ら壊してきたため、優れた文化は日本に残っている」という意味合いの詩を残していると伝え、宋の時代の中国人にとっての日本人は、やはり「文化を大切にし、学習を好む民族」として映っていたことが分かると伝えた。

     記事は、日本と中国の長年にわたる交流において、勤勉な日本人は中国文化の精髄を学びとってきたものの、尊大な中国人は長年にわたって日本に対する理解を深めようとしてこなかったと強調、これは中国人にとっての悲哀ではないだろうかと主張した。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    遣隋使や遣唐使で日本人と接触のあった当時の中国人は「日本人をどう評価していた?」=中国


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     明智光秀が「本能寺の変」で織田信長を討ったのは、義に反する信長の非道を許すことができなかったから――。明智光秀が築いた福知山城がある京都府福知山市と「福知山光秀プロジェクト推進協議会」は、本能寺の変があった6月2日、福知山光秀ミュージアム公式サイトにおいて、本能寺の変の原因といわれる50説からそれぞれの“推し説”の投票を受け付けたオンラインイベント本能寺の変 原因説50総選挙」(略称#HNG50)の投票結果を発表しました。

    【その他の画像】

     同ミュージアムは、新型コロナウイルスの感染拡大で受けて休館している中、イベントとして本能寺の変の原因として50の説を紹介し、その中から自分が推したい説を投票する企画を実施。寄せられた3万5359票の中からもっとも多い4046票を集めたのが「暴君討伐説(※信長非道説)」でした。信長は気性が激しく、激情することが多かったといわれており、天下統一を目指す過程で数々の残虐行為を行っていたことに不信感を抱いた光秀が正義のために討ったとする説です。

     2位はもっとも得をした人として根強く唱えられている羽柴(豊臣)秀吉が黒幕になって光秀に討たせたとする「羽柴秀吉黒幕説」(2513票)、3位は諸侯の前で信長の度重なるいじめを受け、武士の面目をつぶされた光秀が、その恨みから信長を殺害したとする「怨恨説」(1866票)でした。結果発表のページでは、50位までのランキングとともに投票者の各“推し説”への熱いコメントも公開されています。

     今回の#HNG50の結果を受けて主催者は、「真実が誰にもわからないからこそできる試みを、という思いで企画しましたが、皆さんもそれを理解し楽しんで参加してくださったことが、投票時のコメントからひしひしと伝わってきました」と感謝を述べるとともに、「1位の得票率は11%でした。9割の方は他の説を選んだことになります」「光秀に対して好意的、または同情的なコメントが多く見られました。皆さんの光秀に対するイメージが、『主君を討った裏切り者』から、多様に変化しているのではと感じています」とドラマの影響なども踏まえイメージが変わってきていることにも触れています。

     なお、投票者の中から抽選で130人には謀反を知らせるはがきが1日までに郵送されている。こちらは数々の日本史や昔話のパロディー作品で注目を集めてきたスエヒロ(@numrock)さんの作品を福知山市がグッズ化したもので、明智光秀の謀反宣言が公的団体の通知ハガキ風に表現されています。ちなみに当選者へ「大変野暮ですが、念のため」と前置きして「実際に武器や防具をもって桂川や本能寺で集合されませんよう、お願いいたします」との注意事項が添えられています。

    福知山城


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    九州は、福岡県佐賀県長崎県大分県熊本県宮崎県鹿児島県の7県を有する巨大な島の事を指します。また九州地方といった場合は、沖縄県が加わり8県になります。



    なぜ7県しかないのに、「九州」というのでしょうか?実はこの名前には、その昔に九州にあった”国”に由来するそうです。



    そこで今回は、九州と呼ぶ理由などを分かりやすく解説いきたいと思います!



    「九州」は古来日本の律令国に由来する



    九州は、北海道、本州、四国と並んで日本列島を構成する島の1つです。日本列島の中では南西部に位置しています。



    そして九州という名前は、古来日本の律令国(令制国)の数え方に由来しているそうです。



    律令国とは



    律令国(りつりょうこく)は、令制国りょうせいこく)とも呼ばれています。



    飛鳥時代(592~710年)から明治時代(1868年~1912年)初期まで用いられていた「律令制」に基づいて設置された日本の地方行政区分のことです。



    「国」と呼ばれる行政単位であり、九州の地には9つの国が配置されていました。



    律令国時代の九州の国名



    律令国時代の九州の国名は全部で9つありました。



    筑前国(ちくぜんのくに)



    筑前国は現在の福岡県北西部にあたり、筑後国とあわせて「筑州」とも呼ばれています。



    筑後国(ちくごのくに)



    筑後国は現在の福岡県南西部にあたり、筑前国とあわせて「筑州」とも呼ばれています。



    豊前国(ぶぜんのくに)



    豊前国は現在の福岡県東部と大分県北部にあたり、豊後国との総称で「豊州」とも呼ばれています。



    豊後国(ぶんごのくに)



    豊後国は現在の大分県の大部分にあたり、豊前国との総称で「豊州」とも呼ばれています。



    肥前国(ひぜんのくに)



    肥前国は現在の佐賀県長崎県(壱岐島と対馬を除く)にあたり、肥後国とあわせて「肥州」とも呼ばれています。



    肥後国(ひごのくに)



    肥後国は現在の熊本県にあたり、肥前国とあわせて「肥州」とも呼ばれています。



    日向国(ひゅうがのくに)



    日向国は現在の宮崎県にあたり、「日州」とも呼ばれています。



    大隅国(おおすみのくに)



    大隅国は現在の鹿児島県の大隅半島と屋久島種子島奄美大島にあたり、「隅州」とも呼ばれています。



    薩摩国(さつまのくに)



    薩摩国は現在の鹿児島県西半部の薩摩半島を中心とした地域にあたり、「薩州」とも呼ばれています。



    9つの国があったから九州



    筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の9つの国があったことから、「九州」という名の由来になったのです。



    律令国以前は4ヶ国だった九州



    律令国以前の古墳時代までの九州の地は、4つの区画に分けられていました。それぞれの国をまとめてみましょう。



    筑紫国(つくしのくに)



    筑紫国は、律令国でいう筑前国と筑後国にあたります。



    現在行政区分では、福岡県のうち東部を除いた大部分にあたる地域です。



    豊国(とよのくに)



    豊国は、律令国でいう豊前国と豊後国にあたります。



    現在行政区分では、福岡県東部および大分県全域にあたる地域です。



    肥国(ひのくに)



    肥国は、律令国でいう肥前国と肥後国にあたります。



    熊本県を「火の国(肥の国)」と呼ぶのは、この肥国に由来します。



    熊襲国(くまそのくに)



    熊襲国は、現在の九州南部にあたります。



    神話や伝説上の熊襲の本拠地であり、現在の鹿児島県霧島市・曽於(そお)市を中心とする地域にありました。



    かつては7県以上あった九州



    現在九州地方は7県ですが、以前は7県以上ありました。九州地方の県の歴史をまとめてみましょう。



    廃藩置県当初は30県以上も



    明治維新期の1871年(明治4年)7月に行われた廃藩置県で、明治政府はそれまでの藩制度を廃止し、中央管下の府と県に一元化しました。



    この廃藩置県が行われた当初は、九州地方には30以上の県があったといわれています。



    第一次統合でも10県以上



    1871年(明治4年)10月11月に行われた第一次府県統合によって、各府県の管轄区域は国や郡を単位とする一円的な領域に再編されました。



    この第一次統合によって、九州地方の県は廃藩置県当初に比べると数は減ったものの、それでも10県以上あったそうです。



    第二次統合は5県に!



    1876(明治9)年に行われた第二次統合によって、九州地方福岡県長崎県熊本県大分県鹿児島県の5県になりました。



    現在の7県になったのは1900年の府県制施行後のことです。九州地方が7県になったのはわずか120年前のことなんですね。



    まとめ



    九州地方の「九州」という名前は、昔の律令国時代の国の数に由来するものでした。



    九州地方は様々な国編成を繰り返し、明治維新後の廃藩置県によって一時は30以上の区分けをされていましたが、統合によって数は減っていきました。



    現在の7県の形になったのは1900年に入ってからです。それぞれ地方の名前の由来を知ると、歴史を知ることができとても興味深いですね。



    (出典 news.nicovideo.jp)


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    ■すべてを失う覚悟で大胆な選択をしてきた

    ここ一番の状況なのに、優柔不断で物事を決めることができない。ほとんどの人が、そんな悩みを持っているだろう。一方、後世に語り継がれるようなリーダーや大物は、修羅場に立ったとき、すべてを失う覚悟で大胆な選択をしてきた。つまり、「決断力」を備えているのだ。

    はたして乱世を乗り越えた戦国武将たちは、どのような決断を下して生き残ってきたのか。その出来事とスキルを、人気の歴史学者・本郷和人氏が多角的な視点で解説。決める勇気を学んで、ぜひ日常生活やビジネスシーンのなかで役立ててほしい。

    ■毛利元就 誰も信用しないでガッチリ稼ぐやり手のワンマン

    元就は、突出して優秀な武将です。圧倒的な兵力差の戦いに何度も勝つなど、軍事的な才能が高く、用意周到に手を打って、小早川家や吉川家を乗っ取っていきました。1万石もない領地を120万石まで持っていったのは、M&Aを成功させたようなもの。ド汚い手を使いながらビジネスチャンスを掴んでガッチリ稼ぐ、ウォール街にいそうなやり手のビジネスマンタイプですね。

    ただ何でも自分で全部やってしまうワンマンだから、毛利家を継承するシステムをきちんとつくりませんでした。元就の死後、毛利家はあっという間にダメになってしまったのです。

    元就といえば、息子に結束の重要性を説いた「三本の矢」の話が有名です。でも古文書を読むとそんなに美しい話ではなくて、元就は、「本拠地・安芸国においてすら、『毛利家のために』なんて思っている家来は1人もいない。兄弟しか頼れないから仲良くしろ」と言いたかったんです。どこまでも人間不信なんですね。

    さらによくよく読むと、元就は「ボンクラな兄ちゃんを立ててやれ」と言いたかったらしい。誰も信用しないけど、ボンクラな長男はかわいかった、という部分にかすかな人間味を感じます。

    ■武田信玄 名君の手痛いミスは後継者問題

    信玄は非常に優秀です。名君と呼んでいいかもしれません。特に長けていたのが人材登用で、真田昌幸など、優秀な人材を数多く取り立てました。これはという者がいたら、武田に仕えていた伝統ある家に養子に入らせて、継がせる。ちゃんとワンクッション噛ませるんです。だからその後、抜擢してもみんなが納得するし、家臣から裏切られることもありませんでした。

    惜しまれるのは、後継者問題です。正室とのあいだにできた義信が、びくともしない跡取りだったのにもかかわらず、武田氏と北条氏と今川氏の甲相駿三国同盟を堅持するか破棄するか意見の対立で、最終的に腹を切らせることになりました。そして四男の勝頼を諏訪家から戻して、勝頼をつなぎの後継者、その息子・信勝を真の後継者に指名します。家臣団からすれば、勝頼は昨日までの同僚だし、「かりそめの後継者って何だ?」という感情になって、まとまりませんよ。実に手痛い失敗でした。

    信玄は20年かけて信濃国を制圧しました。すごいことですが、信濃国は40万石なので、時間をかけたわりに効率が悪い気がします。戦術面では優れていても、大局的な戦略観がやや弱かったようにも思えますね。

    ■上杉謙信 神頼みすぎる独断専行に部下はドン引き?

    「義の武将」として人気を集める謙信。はっきり言って、僕の評価は高くありません。細長い形状をした越後国のなかで、謙信が居城した春日山城は土地の端っこに位置します。どうして越後国の真ん中、今の新潟市あたりに居城しなかったのでしょうか。複雑な地形の国を治めようと思ったら、本拠地を変えるぐらいの柔軟さが必要ですが、その決断力はなかった。

    また、決める姿勢は独断専行型でした。毘沙門天を信仰していた謙信は、重要な案件があると毘沙門堂にこもって、出てくるとすべてが決定されていたわけです。神頼みすぎます。ドン引きです。それで部下が納得するものなのか……。

    後継者選びも大失敗しています。謙信が死んだのは49歳。寿命が50歳の時代だから、後継者を決めておくべきなのに、自分の血がつながっている景勝と、北条氏康の倅である景虎のどちらにするか、決められないまま亡くなりました。結局、死後は内輪もめで上杉家は真っ二つに割れて、弱くなってしまったわけです。

    戦はうまかったようですが、10万の兵で囲んだ小田原城は落とせませんでした。大きな組織のトップになる器ではなかったのでしょう。

    ■織田信長 唯一無二の判断をした男の正体はサイコパスか

    「たいしたことない」「残酷だった」という悪評も囁かれる信長ですが、僕は単純にすごいと思っています。というのも、信長は「日本は1つであるべきだ」と考えたわけで、それは他の武将にはできない判断でした。その一点だけでも信長は認められるべき武将です。それを前提にしたうえで、「残酷だった」という指摘には頷きますけど。

    信長は人材登用において実力主義を徹底していました。「他国の人間は信用できない」という風潮のなかで、才能さえあれば、誰でも取り立てたのです。だけど、そこには人を殺す使命を遂行して初めて認められるという、野蛮な評価基準がありました。しかも、実力がなければ、本当に首が飛ぶこともあった。家臣からすれば、「いつ捨てられるかわからない」というストレスに襲われて、いつまでもついていきたいとは思えないですよ。ゆえに信長は常に誰かに裏切られる人生でした。

    ちなみに脳科学者の中野信子先生によると、信長をサイコパスとしてとらえると、行動や性格に説明がつくそうです。ただし、信長は天守閣をつくったり、お茶を政治に取り入れたり、サイコパスに欠けているはずの美的センスを持っていた。本当はサイコパスだったのか、気になるところです。

    ■豊臣秀吉 性格の悪さを隠して「気遣いの人」を演出

    僕はどうも秀吉が好きになれないんです。というのも、「天性の人たらし」「気遣いの人」という陽性のイメージに共感できない。本当はすごく性格が悪かったんじゃないでしょうか。

    特に天下人になるにつれ、部下に冷たくなり、イヤな部分が表出します。初期の秀吉についていた四天王のうち2人は失敗を犯して、追放されたのち、自害を申しつけられました。太閤検地に逆らった農民はなで斬りにしろと命じ、さらに年をとると、秀頼に跡を継がせたいがために、競争相手を血祭りにあげていった。それで豊臣政権は弱体化したわけですが……。

    もともと秀吉は、陽気な芸人が普段は暗いように、計算ずくの明るさを演出していたように思えるんですよ。織田家にいるときは従う人格をつくり、天下人になったら朝廷に対して友好的な人格をつくる。そこを徹底できたセルフコントロールは大したものです。

    決断力という点で見ると、朝鮮出兵が大きなマイナスですね。国内が飽和状態で、部下に分配する領地がなくなったから朝鮮へ行った――と言われていますが、家康を潰せば、関東地方の領地が全部手に入っていたはずです。それに関しては、力を注ぐ場所を間違えたのでは、としか思えませんね。

    ■徳川家康 努力家で勉強家で堅実だけどロマンも華もない

    家康の比類なき決断といえば、「政権を東で維持しよう」と考えたことでしょう。関ヶ原のあと、伏見や大阪界隈に政権をつくるというのが普通の発想です。それが東北・関東も貧しかった時代、江戸に中心地を持っていった。誰にもない先見性を持っていたと言えます。

    家康は努力家なんですよね。勉強家で、剣の達人でもある。そして政治家としては、非常に我慢強い。信長からひどい目にあわせられながらも、同盟を破棄しませんでした。その姿勢が信用を蓄積して、天下人へ押し上げられていったわけです。戦い方も堅実。ひたすら守りに徹して、相手の失策を待つ。コツコツとやるべきことをやり、部下にも裏切られません。

    という称賛の裏返しになりますが、家康はとにかく地味で、面白味がありません。少数の兵で大逆転したような軍事の逸話もないし、女性関係も地味。熟女好きかと思いきや、子供がたくさんできたら急変して、若い側室をたくさんもらいました。身も蓋もないというか、ロマンを感じませんねえ。信長や秀吉にあるような華がないんですよ。

    家康は安心して暮らせる社会をつくり、日本の国力もあがりました。ただその地味さが、堅実すぎてつまらない社会の礎を築いた感もあります。

    ■今川義元 「バカ殿」は誤解! 本当は先見性を持っていた

    桶狭間の戦いで信長に敗れたため、義元は「バカ殿」「ボンクラ」として扱われがちです。しかし、立派な殿様だったと僕は評価しています。戦には負けるべくして負ける戦いと、何があってもおかしくない戦いの2種類があって、桶狭間は後者でした。義元はあの敗死さえなければ、信長の引き立て役では終わらなかったんじゃないでしょうか。

    たとえば、甲相駿三国同盟の締結です。海が欲しくて駿河国に攻め込みたい武田信玄、駿河国の東部を奪い合っていた北条氏康。緊張関係のあるなか、同盟を結んで攻められないようにすると、西に向かって領土を拡大していきました。さらに信長の妨害を受けながらも、三河国を今川家の支配下に置き、松平元康徳川家康)を今川の武将として位置づけてもいます。

    それに父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」を、義元はさらに補完して、「京の権威の力を借りず、今川家独自の力で領国を治める」という“独立宣言”までしているんですよ。沼津港の船のことまで義元は指示を出していた、と書かれた古文書も残っていて、その先進性、視野の広さはあなどれません。スケールスピード感に欠けるきらいはありますが、もう少し評価が上がってもいいように思います。

    ■石田三成 実務能力は高いが人望がなさすぎた……

    「秀吉への忠誠心が素敵……」と歴史好き女子の間で人気の三成ですが、彼が秀でていたのは、計画立案に代表される実務能力でしょう。太閤検地をデザインしたのは三成と言われているし、秀吉の軍の兵站整備も堅実にこなしました。官僚タイプで、自身の能力をわきまえていたのでしょう。自分は戦争がヘタだと理解しているから、配下の家臣たちに武勇の士を多数抱えました。

    だけど残念なことに、三成は求心力、そして豊臣政権内部での人望があまりにもなかった。ここは難しいところで、現代で言えば、経営者の決めたことを実行する副社長のような立場なんです。権力者の側にいる人は、どうしたって恨みを買います。特にかわいそうなのは朝鮮出兵で、三成の家来が現地で指示するたび、苦労している武将たちは、「秀吉め!」とは言えないから、三成に怒りの矛先が向かってしまうんですよ。この遺恨が尾を引いて、関ヶ原の戦いで豊臣の譜代大名が家康についてしまったに違いありません。

    こういう立場に置かれた人は一歩引いて、おとなしくするのが得策です。だから秀吉の死後、頭を下げていればよかったのに、つい前に出てしまうのが三成の甘いところ。官僚の才能はあっても、政治家としては力不足でした。

    ■伊達政宗 半歩遅れ&日和見は生き残るための最適戦略

    当時の東北地方は、江戸から約20年は時代が遅れていました。そこで気勢をあげていた政宗は、申し訳ないけれど、「時流を判断できない田舎者」という印象です。一歩遅れる戦国大名は潰されるなかで、半歩遅れていたおかげで首の皮一枚つながったとも言えます。

    政宗は秀吉の北条征伐に遅参したことで、会津領を没収されます。その後、秀吉に呼び出されると、余計な行動に出て立場を悪くし、かつて100万石あった領地は58万石にまで減封されました。さらに関ヶ原の戦いのとき、東軍についたら領地を戻すとお墨付きをもらうのに、「どっちが勝つかな?」と日和見しているんですよ。当然、戦いが終わって、「何もやってねえじゃねえか」と家康に怒られました。戦国大名として活躍している時期は短いし、快勝した戦いの記録も少なくて、かなりダメな武将です。

    政宗の頼りない決断力からは、「立場を決めて、ちゃんと実行する」という反面教師的な教訓が得られます。ただ、日和見していれば、とりあえず保身はなんとかなるわけで、生き残りという意味では正しい選択なのかもしれません。晩年、政宗は昔の武勇伝を自慢げに語っていたようです。この処世術では、給料は上がりませんけどね。

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    本郷 和人 東京大学史料編纂所教授
    1960年東京都生まれ。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。主な著書に『日本史のツボ』(文藝春秋)、『乱と変の日本史』(祥伝社)など。

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    ※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mura


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    中世の弓矢

    中世の弓矢の殺傷力がすごい public domain

     中世のイギリスで使用されていた弓矢には驚くべき殺傷力が秘められていたことが、新たなる研究で明らかになったようだ。

     矢には、わざと羽根をつけて時計回りに回転させて敵を射貫くよう計算されていた可能性があるという。弓矢(ロングボウ)に頭を射抜かれた頭蓋骨の分析を行ったところ、その威力は銃弾なみだったという。

     弓矢の性能ももすごいアーチャー(射手)のテクニックも相当なものだったのかもしれない。

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    骨まで貫通。中世の武器、ロングボウの威力を検証

     イギリスロングボウ(長弓)は、敵の鎧をも貫くほど強力な中世の武器だったと言われている。

     とくに百年戦争のアジャンクールの戦いのときは、これが戦に勝利した決定的な要因のひとつになったかもしれない。英エクセター大学の考古学チームの新たな研究によると、ロングボウの矢による傷が、現代の銃創とよく似ていおり、骨までも貫通できるほどの威力があった証拠を見つけたという。

     この研究論文は『Antiquaries Journal』に発表された。

    THE FACE OF BATTLE? DEBATING ARROW TRAUMA ON MEDIEVAL HUMAN REMAINS FROM PRINCESSHAY, EXETER | The Antiquaries Journal
    https://www.cambridge.org/core/journals/antiquaries-journal/article/face-of-battle-debating-arrow-trauma-on-medieval-human-remains-from-princesshay-exeter/

     これまで、ロングボウが戦闘でどれほど効果があったかについて、研究者たちは繰り返し議論を重ね、レプリカを使った再現実験も何百回と行われてきた。

     エクセター大学のオリバー・クレイトン教授ら研究チームによると、矢は完全に安定せずに回転がかかった状態で飛ぶため、戦闘員が負う傷の形状に影響するはずで、分析すれば、さまざまな議論に決着をつけるための骨学的証拠の重要性がわかるという。

    頭蓋骨に刺さった中世の矢

    イングランドエクセターにある中世のドミニコ会修道院墓地から発掘された頭蓋骨に残された傷穴の挿入口の復元
    image credit:Oliver Creighton/University of Exeter

    戦闘犠牲者の埋葬地で発見された矢じりによる外傷の証拠


     中世の墓地の遺骨から、武器でつけられた暴力的外傷の直接的な証拠が見つかるのはまれだが、よく知られた歴史的な戦闘犠牲者の大量埋葬地は例外だ。

     埋葬地の遺骨は、兵士たちがどのようにして戦い、殺されたのか、どんな武器が使われ、どのような傷を負って死んだのか、どんな武具を身に着けていたのかなど、中世の戦争の現実について有益な情報をもたらしてくれる。しかし、とくに、矢じりによる外傷の証拠は、めったにおめにかかれない。

     今回の研究で調べた22の骨の破片と3本の歯からは、外傷の痕跡がはっきりとわかった。これらの骨はすべて、ショッピングモール建設に先立って、1997年から2007年にかけて発掘されたエクセターのドミニコ会修道院墓地跡から回収されたものだ。

     1232年に建設され、1259年に正式に献堂されたこの修道院の墓地には、裕福で地位の高い俗人も埋葬されていたという。

     とくに、修道院の北側の身廊下には、無数のバラバラの遺骨が埋まっていて、頭蓋骨や手足の骨など、さまざまに違う時代のものが混在していた。中世の埋葬地にありがちだった、後世の墓地が挿入された形になっていた。

     22の骨の中に、右目の上から頭の後ろにかけて貫かれように穴のあいた頭蓋骨がある。研究者たちは、矢が時計まわりに回転しながら命中し、頭蓋を砕いたのではないかと考えている。

    弓矢による頭蓋骨損傷

    右目の上から頭にかけて貫かれた矢 image by:Oliver Creighton/University of Exeter

    銃の弾丸と同じ回転をする矢


     中世の矢には羽根がついていたため、放たれた矢にスピンがかかり、空中を飛んでいる間により安定し、正確にターゲットを目指したと推測される。 これが、矢に羽根をつけてわざと時計まわりの回転がかかるようにした、初めての証拠かもしれない。

     注目すべきは、現代の銃の製造者も、発砲された弾丸が時計まわりに回転するように銃を作ってきたことだという。さらに、矢柄が頭蓋骨に刺さり、それを正面から引き抜いたためか、よけいに損傷が大きくなっている例もあるという。

     矢じりは、四角錐、もしくはダイヤ型をしたボドキンタイプで、当時の戦争で使われていた一般的なものだった。 

    arrowtypes

    image by: image by:Oliver Creighton/University of Exeter

     右の脛骨の上近くにもうひとつ穴があいているものもあり、矢が後ろからふくらはぎの肉を貫ぬき、骨で留まったことがうかがえる。大腿骨にも矢でかすったような傷が見られたが、これは、刃のついた道具によるものらしいという。

    右の脛骨を貫いた矢

    右の脛骨を貫いた矢 image by:Oliver Creighton/University of Exeter

     この頭蓋骨と脛骨、大腿骨は同じ犠牲者のものかもしれない。
    最初に頭に受けた傷が致命傷になり、犠牲者がうつぶせに倒れたとき、続いて脛骨、大腿骨をやられたというシナリオが考えられる。

    しかし、これはあくまで推測で、武器の進入角度を説明するだけのもので、犠牲者が立っていたのかどうかの説明は難しい。あるいは、犠牲者は馬に乗っていたか、高い場所に立っていた可能性もある


     これらの結果は、中世のロングボウの威力に対する我々の理解や、考古学的な記録における矢の傷をどう認識するか、戦闘の犠牲者がどこに埋葬されたか、などに大きな影響を与えると、クレイトンは語る。
    中世の世界では、目や顔に矢を受けて死ぬことは、特別な意味があった。聖職者が、目に矢を受けた傷を神の定めた罰だとみることもあったのだ。

    1066年のヘイスティングスの戦場で、目を射貫かれて死んだハロルド二世がこれに納得するかどうかはわからないが、我々の研究は、矢によってつけられたこうした傷の恐ろしい現実に焦点を当てている

    References:archaeologynewsnetwork / arstechnicaなど/ written by konohazuku / edited by parumo 全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52290882.html
     

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     万里の長城を建設したことでも知られる「秦の始皇帝」の命を受け、不老不死の薬を求めて旅立った「徐福」という人物がいたという。徐福は3000人の若い男女と多くの技術者を従えて東方に船出したと言われているが、中国メディアの今日頭条はこのほど、「徐福と彼が連れて行った若い男女の末裔が日本人である」という説は本当かと題する記事を掲載した。

     日本には徐福にまつわる伝承が各地に残されているのは事実だ。たとえば、徐福について「平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となり、秦には戻らなかった」という記録があることを伝え、記事はこの「平原広沢」は日本の九州地方のことだと主張。九州は気候に恵まれ住民も純朴で、地元住民に農耕や漁業などの技術を伝達して「王」になったのではないかと伝えた。徐福は中国を出るとき、稲など五穀の種子や財宝、各種技術者を伴ったと言われている。

     記事は、徐福が日本を訪れた証拠は十分だと指摘。北宋の詩人・欧陽脩も日本刀についてうたった「日本刀歌」のなかで徐福が日本に渡ったことに触れているほか、古事記日本書紀も秦から日本に渡って来た人に言及していると紹介した。

     それに加えて、日本には各地に徐福の伝承が残り、徐福を祀った像や記念碑があり、徐福関連の催しが行われていて、徐福の子孫を名乗る人もいると紹介。徐福は伝説の人物ではなく、実際に存在して日本に渡ったに違いないと結論付けている。

     日本各地にこれだけ伝承が残っているというのは、何ともロマンのある話で、中国人が興味を示すのも理解できる。日本人が徐福の末裔というのは誇張された表現であるにしても、徐福とその一行の末裔が日本人と同化したという見方はできそうだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    日本人は「徐福とその従者の末裔」だという説は本当なのか? =中国報道


    (出典 news.nicovideo.jp)


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