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    歴史

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    江戸幕府が開かれ、日本全体に天下泰平が訪れる前、日本では内乱が起こりまくっていました。その時代を見たことがないのでわかりませんが、現代に比べれば治安なんかは最悪といっておそらく差し支えないでしょう。しかし、そんな世の中においても、日本人は創作するDNAを忘れられなかったのです。

    同人誌とは

    同じ趣味や、同じ志をもつ人々が集まり、資金を出しあい創作する活動を同人活動と言い、そういった活動の中で作られた本を同人誌と呼びます。たまにプロの漫画家さんが個人的に資金を出して作ることもありますが基本的にはアマチュア作家が書いているものが大半です。同じ作品が好きな人が、2次創作と言われる個人的に考えた設定などに置き換えてその作品のキャラを描いたりもします。

    黒歴史とは

    日の目を見る同人誌は、売れる事もあります。しかし、あくまで個人的に作られているものもあります。筆者は同人誌こそ書いた事がありませんが、オリジナルかつ自分が主人公と言う口に出すのも憚られるレベルの漫画を描いていたことがあります。このように、発表されると叫びだしたくなるほど恥ずかしい歴史を人は「黒歴史」と呼びます。

    例えば「初めての彼女にフラれて泣きじゃくった」なんかは全く黒歴史でもなんでもありません。黒歴史とはRPGツクールでガチガチに設定資料を書きこみ、とてもカッコよすぎる必殺技や武器名、幼馴染ヒロインにだけは心を許していたりする主人公が書かれたノートなんかを指します。あのノートは実家の大掃除と共にゴミ収集車の中に入ってくれていることを切に望みます。

    室町時代同人誌

    その名も「新蔵人物語絵巻」。内容は男装して宮仕えした少女が帝に気に入られるが、遂に正体がバレてしまい、その後は秘密の恋物語に発展して行くというお話。なんというか...日本人の好きな話って500年経っても変わっていないんですね。

    sourceサントリー美術館コレクションデータベース

    Twitterの反応

    薄い本ならぬ、(縦の)短い絵巻と呼ばれていたのでしょうか。


    作者さんは当然、もうとっくの昔に亡くなっていらっしゃる方ですが、どうしてそれが残されているのか...と思ってるかもしれません。

    画像掲載元:写真AC



    画像が見られない場合はこちら
    室町時代の同人誌が美術館に飾られていると話題に


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    『日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民』(みすず書房) 著者:富田 武


    徹底解明 「終戦」ではなかった8・15

    第二次世界大戦はどのように終結したのだろうか? 一九四五年五月、ドイツが無条件降伏し、七月末には連合国首脳がポツダム宣言を発表、なおも戦い続ける日本に対して降伏を迫った。ところが日本政府はこれをすぐには受け入れず、「黙殺」すると発表した。国際的にはそれが「無視」「拒否」と受け止められ、アメリカは八月六日と九日、広島と長崎に原爆を落とし、これが決定的な打撃となって、日本は八月一五日、天皇の玉音放送によって降伏の受諾を公表した。つまり、日本の戦争は八月一五日に終わったことになる。それでは本書が表題に掲げる「日ソ戦争」とは一体何なのか?

    この本の主題は、戦争の本当の終結のために、アメリカによる原爆投下と同様に決定的な役割を果たしたのが、ソ連による対日参戦だったという歴史的事実である。八月九日、ソ連は日本との中立条約を破って対日参戦を通告、満州への侵攻を開始して関東軍を圧倒したのだが、それでも関東軍が正式に降伏したのは八月一九日であり、さらにソ連軍による樺太・クリル(千島)の侵攻・占領作戦は九月初旬まで続いた。

    日本の教科書などではソ連による「満州侵攻」「対日参戦」などと片づけられることが多いが、富田氏は、最近ロシアで機密解除された膨大な資料を調査し、露・日・英の文献に基づいて、満州の戦闘の実態を軍事的に解明していく。従来正統的な歴史研究者には敬遠されがちだった軍事史に大きく足を踏み入れる研究と言えるだろう。原爆とソ連参戦と日本降伏をめぐっては、国際的な広いキャンバスで米ソの息詰まる駆け引きを劇的に描き出した長谷川毅の『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』という名著があるが、富田氏の本はこの時期の日ソ戦争という局所に虫メガネを当てて真実をより緻密に追求している。

    本書はこの「戦争」の前史としてのヤルタ秘密協定(一九四五年二月、英米ソの間で、ソ連の対日参戦が秘密裡(り)に合意された)から、戦争後の日本軍捕虜の「シベリア抑留」や「戦犯」の裁判までの流れを視野に入れているが、最大の功績は、日ソ双方の記録・証言を突き合わせながら、場所別に日を追って戦闘の経過を克明に示していることだ。これは紛れもない「日ソ戦争」だったのである。

    降伏を呼びかけるためにソ連軍から派遣された軍使(日本人捕虜)は日本軍将校に斬殺されたが、そのことは日本側の公式記録からは削除され、ソ連軍が居留民に対して行った略奪やレイプ、虐殺などはソ連側の文書では言及されない。読み進めるだけでもつらい、悲惨な出来事の全体を富田氏は歴史学者として客観的に見つめ、ソ連軍による蛮行を暴くと同時に、日本人居留民を置き去りにした関東軍の責任、そして集団自決を美徳とした軍国主義の問題からも目をそむけない。

    いや、「客観的」とは言ったが、ここには著者の深い個人的思い入れも秘められている。著者の大伯父の一人はレイテ戦で自決、もう一人はシベリア出兵と抑留の両方を経験したという。本書のあとがきは、「兄二人レイテ自決とシベリア送り 祖母の語りも遠くなりぬ」という著者自作の短歌で――ご本人は「下手な」と謙遜しているが――結ばれているのだから。

    【書き手】
    沼野 充義
    1954年東京生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。2020年7月現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。

    【初出メディア
    毎日新聞 2020年8月29日

    【書誌情報】

    日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民

    著者:富田 武
    出版社:みすず書房
    装丁:単行本(400ページ)
    発売日:2020-07-18
    ISBN-10:4622089289
    ISBN-13:978-4622089285
    日ソ戦争 1945年8月――棄てられた兵士と居留民 / 富田 武
    徹底解明 「終戦」ではなかった8・15


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     日清戦争の序盤で日本が制海権を得るに至った決定的な戦闘は黄海海戦とされている。当時の清国の北洋艦隊はアジア一の艦隊と言われていたにもかかわらず、なぜ日本の連合艦隊に敗れてしまったのだろうか。中国メディアの百家号は10月30日、北洋艦隊が敗れた理由を分析する記事を掲載した。

     記事が指摘した理由の1つは「軍事力の違い」だ。まず、排水量3000トン以上の大型戦艦は、連合艦隊が8隻だったのに対し、北洋艦隊は鎮遠と定遠の2隻しかなかったと指摘。この2隻は排水量では日本を圧倒しており、定遠は305ミリ砲もあって恐れられていたが、この2隻頼みでは力が足りなかったと論じた。

     また、「装備が悪かったこと」も大きく影響していると記事は分析。鎮遠と定遠以外は小さな戦艦で戦力にならず、この2隻も死角のない無敵というわけではないうえ、普段のメンテナンスが行き届いておらず、肝心な時に砲弾が使えないなどの問題もあったという。

     さらに「指揮系統」もうまく機能していなかったようだ。これまで海軍力をあまり重視していなかった清国にとって、北洋艦隊は新興の軍事力で急いで作ったため、戦略などがうまくなかったと記事は分析。指揮系統がしっかりとしていた日本と比べ、指揮官の能力も劣っていて統制がとれておらず、しかも清国政府内でも主戦派と和睦派に分かれており、一致団結して戦うことができない状況だったと説明した。

     それで記事は、北洋艦隊は軍事力で日本と差があり、天の時・地の利・人の和のいずれも優位性がなく、勝ち目はなかったのだと結んでいる。装備の面では北洋艦隊は優位であったはずであり、実際に連合艦隊も少なからぬ被害を受けている。記事が指摘する指揮系統のほかにも、さらに別の要因が勝敗を左右したのかもしれない。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    日本の連合艦隊が「アジア一」の清の北洋艦隊を撃破した理由


    (出典 news.nicovideo.jp)


    (出典 www.savag.net)



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     2020年10月、【定礎】という文字をどこかでご覧になったことはないだろうか。それなりに大きいビルやマンションの入り口付近にはめ込まれている看板みたいなものだ。それはちょっとしたタイムカプセルになっていて、プレートの後ろには、その建物が作られた時代に流行っていたものや建てられるまでのいきさつ、関係者の名前などの書類ものなどが入っている。その建物が壊されない限り、見ることはできない。しかし、壊されるときは、時代も変わっているし、関係者が持ち出すと言うことも少なく、そのまま処分されることが多いけれど。

     そして、定礎の文字は、その建物に一番関係の深い人の直筆を掘る。もちろん人間だから、文字の上手下手はある~なので、書家にゴーストを頼むこともある。

     さて。韓国銀行本館は、1909年に定礎された。その時の定礎の文字が、日帝初代総監である伊藤博文のものだと、21日に韓国文化財庁が発表した。日本では、伊藤博文は、初代総理大臣である。しかし、もう令和時代の人間の中では、1,000円札の人(昭和を生きてきた人)、大河ドラマの幕末物によく出てくる人くらいの認識であり、リアルな人間像は皆無に等しい。

     しかし、伊藤博文は、韓国で英雄として扱われて、銅像にもなった(韓国は、慰安婦を含め、銅像が大好き)安重根に暗殺されている。伊藤も強引なことをしたのかもしれないが、韓国人の手によって殺されたことを忘れてはいけないのだ。

     問題は、100年以上経って風化が激しいその定礎石を取り払えと、韓国の議員たちは騒いでいることだ。

     韓国文化庁は、書体関連の専門家3人に依頼して、伊藤の文字だという結論とした。しかし、昔もゴーストはたくさんいたので、書家の鑑定だけでなく、科学的な実証が行われてこそではないか。

     韓国文化庁は、こうも言っている。「文字を刻む過程で、画の間が離れるべき部分がくっついていて、筆が通り過ぎた場所の書体を活かすことが出来なかった」。なら、その文字は、掘った石屋の文体であり、伊藤のものという確証はない。

     まず、この定礎石を取り払う費用を日本に求められているわけではないので、放っておくのが一番だが。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ならぬ、日本憎けりゃ石まで憎い。削った石の中から、韓国にとって歴史上まずい書類が出てこなければいいのだが。

    伊藤博文 記念硬貨


    (出典 news.nicovideo.jp)


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     福井県の山深い場所に、その集落はある。京都府滋賀県との県境に近く、県道35号から南に伸びる頼りない一本道しか交通手段はない。都会の喧騒とはかけ離れたこの場所に、かつて9世帯が暮らす永谷集落があった。

     その平穏な村にダム計画が持ち上がったのは、今から40年前の話だ。ダムが完成すれば、集落は水没して消滅する。穏やかな日々を過ごしていた住民たちは、賛成派・反対派に分かれて対立したが、最終的には全世帯が移転し、集落は無人となった――。

     ここまでは、ダム建設の時によくあるエピソードかもしれない。しかし、話はこれで終わらなかった。無人集落となったあと、なんと計画が根底から見直され、結局、ダムは建設されなかったのだ。そして、ダム計画に翻弄され続けた廃集落は、今も山奥にひっそりと佇んでいる。

    11年前に初めて足を運んだ理由

     私が初めてこの場所を訪れたのは、11年前のことだった。廃墟探索が趣味の私は、福井県に、とある廃集落があると耳にした。それが永谷集落だったのだ。

     しかし、正直なところ、最初はあまり現地に行くつもりはなかった。“廃墟マニア”の勝手な理屈だが、時間を掛けて廃集落を訪れても、巨大な工場廃墟のような派手さはなく、廃屋がポツンポツンと点在しているだけだ。

     また、学校や旅館のように、かつて不特定多数の人を受け入れていた建物とは異なり、個人宅は外から観察するのは気が引ける部分がある。

     だがその後、ここが廃集落となってしまった経緯、ダム計画に翻弄された過去を知るとどうしても気になってしまい、実際に現地を訪れることにしたのだ。

    険しい一本道の先に取り残された廃集落

     永谷集落は全方向を山に囲われており、アクセスするには北側に回り込むしかない。ただでさえ細い一本道は荒れ、舗装も所どころで剥がれてしまっていた。路面の倒木と落石を避けながら、険しい道を進んでゆく。

     なんとかたどり着くと、永谷川に沿って廃屋が点在していた。たった9世帯の集落ではあるが、神社とお寺のほか、公園もあったようだ。その全てが、廃れてしまっている。

     母屋のほか、離れや蔵が設けられている家屋が多く、先祖代々ここで暮らしてきたことがうかがえる。時代を感じさせる建物や、家の前にはレトロな残留物が転がっていたりして、見どころがとても多い。半壊してしまっている建物から、大正3年の新聞が顔をのぞかせていて、つい見入ってしまった。

    神社に残された“200年以上前の残置物”

     川沿いの一本道を上流から下流側に進んでいくと、左手にお寺と神社が並んでいた。双方とも廃村の際に正式に移転したようだが、神社には狛犬が鎮座していた。神社には〈寛政九年 愛岩山 大工長兵衛作〉と書かれた木の部材が落ちていた。寛政九年ということは西暦1797年なので、200年以上も前ということになる。直前に何かの工作物が朽ちて、この文字が露出したようだ。

     墨で書かれたその文字は、すぐに消えてしまうだろう。大正3年の新聞と同様、廃墟にある残置物との出会いは、まさに一期一会だ。どんなに貴重な物であっても、建物とともに自然と朽ちていってしまう。それは、保存も解体もされず、放置されている廃墟の宿命といえるだろう。

     こうした廃集落を訪れる際、部外者である私は、傍観者に徹するよう努めている。自然に朽ち果て、あるいは人為的に取り壊される廃墟を、ただ眺める。破壊しないのはもちろんのこと、そこにある物を動かしたりせず、触ることも極力控えるように気をつけている。

    慎重に川を渡った先には……

     集落内を巡り、残すは川の向こうにある一軒のお宅だけになった。川を渡る橋は既に朽ちていたため、やむなく靴下を脱いで川に入る。

     初秋だったが思いのほか水は冷たく、寒さに震えた。水深は浅いものの流れが早く、川底には苔が生えていて滑りやすい。ゆっくりと慎重に、対岸へ渡った。

    「部落を割る関電電発に絶対反対」

     冷えた足を拭って対岸に上陸し、廃屋の正面に回り込む。そこには、手書きの看板が掲げられていた。

    〈部落を割る関電電発に絶対反対〉

     この看板が、集落の歴史を如実に表しているように感じた。おそらくは、ダム計画に反対し、最後までここで暮らしていた方のお宅だろう。

     集落内には、もう一つ〈関電の電発に反対〉と書かれた看板があった。筆跡やペンキの色から察すると、作者は同じだろう。ダム計画に翻弄されたこの廃集落は、悲哀という言葉では表せないほど、独特の空気感に満ちている。

    80年代に持ち上がった“2回目のダム計画”

     この集落を二分したダム計画というのは、当時日本で最大級となる揚水式水力発電を建設しようというものだった。揚水発電は、電力需要の少ない夜間に電力を使って水を高所に汲み揚げ、その水を昼間の電力需要ピーク時に放流して発電する。発電というよりかは、蓄電という意味合いが強い。この揚水発電を行うには、揚げた水を貯めておく上部池と、放流した水を貯めておく下部池の2つの池が必要になる。

     1960年代に持ち上がった計画では、由良川の上流、京都府の山林に上部池のダムを造り、三国峠を隔てた福井県名田庄村(ここに永谷集落も含まれる)に下部池のダムを建設する予定だった。しかし、山林は貴重な原生林であり、所有する京都大学や地元住民が猛反発したため、計画は一旦見送られた。

     1980年代になって再びダム計画が持ち上がると、地元も誘致を進める推進派と反対派の二派に分かれ、争いを繰り広げた。だが結局、名田庄村では永谷、出合、挙原の3集落が水没予定地となり、多くの世帯が転居を余儀なくされた。

    なぜダム計画は白紙に戻されたのか?

     永谷集落では反対派の住民が最後まで残ったが、1985年、ついに無人となった。しかし、反対運動の広域的な盛り上がりや、町長の改選といった政治的な動きによって、やがてダム計画は再び白紙に戻された。その後、現在に至るまで、ダムを建設しようとする動きは全くみられない。

     出合、挙原の集落跡も訪問したが、ここ永谷集落が最も現存する家屋が多く、当時の痕跡を留めている。単純に廃集落という括りで全国をみても、これだけ完全に集落全てが廃屋となり、現存している場所は非常に少ない。廃墟マニアの目線では、日本屈指の廃集落といえるが、ダム計画に翻弄された過去が、重く心にのしかかる。

     廃墟というのは、光の当たる部分だけではなく、影の部分も我々に見せてくれる。むしろ影の部分があるからこそ、解体されず、保存もされず、廃墟になっていることが多いのだ。

    10年後の“再訪”で目にした光景

     11年前に訪れて以来、永谷集落をもう一度見たいとずっと思っていたが、アクセスが困難であることもあって、なかなか機会に恵まれなかった。しかし、前回の訪問からちょうど10年となる昨年末、再び永谷集落を訪れることができた。

     だが、木造家屋にとって、10年という歳月は残酷だった。幾つかの建物は倒壊し、瓦礫の山と化していた。お寺もペシャンコに潰れ、神社は傾いていた。川の向こうにある邸宅は残っていたが、掲げられていた〈部落を割る関電電発に絶対反対〉の看板は無くなっていた。

     ダム計画に翻弄され続けた悲哀の廃集落。ここに人々が暮らし、そして去って行った経緯を示す痕跡は、着実に色褪せつつある。完全に失われるまでの時間は、そう長くはないだろう。

    撮影=鹿取茂雄

    (鹿取 茂雄)

    “廃村”と化してから約35年が経過した永谷集落(2019年撮影)


    (出典 news.nicovideo.jp)


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    メディスン・ホイールの謎"


     古代の人々は時に、現代の我々が首を傾げるような不可解なものを残す。はるか昔にいなくなってしまった彼らに理由を聞くわけにもいかず、謎は深まるばかりだ。

     アメリカメディスン山の山頂の荒野にある、岩盤の上に白い石灰岩を円形に敷き詰めた「メディスン・ホイール」という建造物も、誰が何の目的で作り上げたのか、未だに良くわかっておらず、様々な議論や憶測が盛んに飛び交っている。

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    山頂に位置する円形の謎めいた建造物

     ワイオミング州「ビッグホーン国定自然林」の中に位置するメディスン山は、標高3000メートル、見渡す限り手つかずの荒々しい風景が広がる。

     ここは、ワイオミング州ラヴェルの東、ビッグホーン山脈の一部だが、アラパホ族、バノック族、ブラックフット族、シャイアン族、クロウ族、クートネー・サリッシュ族、スー族、クリー族、ショショーネ族など、さまざまな先住民族から長くおそれられてきた場所だ。

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     先住民族たちはこの山を精霊の王国として扱い、近づくときは最大限の敬意を払った。ここは、考古学の歴史としても非常に重要な伝説が数多く残る。

     山頂近くに、壮麗で神聖な伝説と儀式の場、霊界との境目ともいえる場所がある。ここには、平坦で広大な石灰岩盤が広がっているが、こんなところになんとも説明のつかない謎めいた構造物があるのだ。

     孤高な石灰岩の高原の上に、直径およそ24メートルの円形構造物があり、その形状はどこか車輪を思わせる。

     直径3.6メートルの円形のケルン(人によって組み立てられた積み石)が建つ中心から、石を並べたスポークが28本伸びている。円の縁に沿って、同じような円形、楕円形、馬蹄形の6つのケルンが作られている。

     全体は、「メディスン・ホイール」、または神聖な輪と呼ばれていて、同様のものは北米にはたくさんあるが、その中でもここビッグホーンメディシン・ホイールは、最大で保存状態も良く、もっとも神秘的だ。

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    いつ、誰が、何のために作ったのか?


     どの部族も、自分たちが建てたものではないと言っており、誰が作ったのかはいまだ謎である。

     先住民族たちがここにやって来る前からあったもので、気が遠くなるほど大昔の祖先が作ったのではないかと彼らの間では言われている。

     1万年以上前の先史時代から、ここに人がいたことは知られているが、メディスン・ホイールがいつ作られたのか、正確な年代が特定できていないことは、さらに謎に拍車をかける。

     同じ地域のべつのエリアの遺跡は、調査によって7000年以上前のものとされていて、ホイールのすぐそばの遺物は紀元900年から1800年の間に作られたものであることはわかっている。

     建造物内にある木片の年代測定では、1760年のものであることはわかったが、ホイールが建造されただいぶ後にここに残された可能性もあり、ホイールができた正確な年代はやはり謎だが、推測では、1000年から3000年前の間に作られたのではと言われている。

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     建てられた年代だけでなく、このメディスン・ホイールがなんのために使われたのかも、ほとんどわかっていない。

     1970年代に、天文学者のジャックエディがこの場所を詳しく調べたところ、面白い発見があった。いくつかあるケルンの配置が、天体の重要性を示していると思われることがわかったのだ。

     ケルンの一部が、夏至の日の出の方向を示し、ほかは夏至の日没の方向と一致していた。さらに、その他のケルンの並びが、シリウスアルデバランリゲルといった特定の明るい星を示していることもわかった。

     28本というスポークの数も重要で、多くの部族はこれを太陰周期(月のサイクル)の数と考えている。

     エディは、このホイールは太陽年の長さや進行、月の満ち欠けや日食や月食のサイクル、惑星の軌道周期などの天体活動を追跡するための、カレンダーや観測所のようなものだと考えている。

     メディスン・ホイールは、さまざまな儀式や、啓示を受けるための神聖な場所として使われたという考えもあるが、誰が作ったのかはわかっていない。

     多くの部族が、ここを断食のための重要な場所、癒しの場としている。バーント・フェイス(焼けただれた顔)と呼ばれるあるクロウ族がここにやってきて、リトル・ピープルの幻影を見てから、自分の崩れた顔が完全に治ったという話もある。ほかにも、さまざまな自己洞察や導き、パワーをホイールから得たと言う部族もいる。


    Medicine Wheel National Historic Landmark,.. Bighorn Mts. Wyoming!

    強力なパワースポットとして先住民の末裔たちの儀式場に

     1970年8月、この場所は国定歴史建造物とされ、2011年には、メディスン・ホイール/メディシン・マウンテン国定歴史建造物と名前を変えた。

     この地域には、文化的、考古学的に重要な多様な遺跡がたくさんあるが、このホイールがもっともよく知られているし、謎も多い。

     現代では、キャンパーやハイカーの人気スポットにもなっているが、ホイールそのものが神秘的なパワーを秘めていて、先住民族の末裔たちの多くは、いまだにここを儀式のために使っている。

     ニューエージやウィッカ信者もこの場所に惹きつけられ、不思議なパワーを秘めるこの領域に身を置くために、急で危険な山道に果敢に立ち向かう。

     メディスン・ホイールは、おそらくわたしたちには決して解明できない謎に満ちた魅惑的な場所で、歴史的、考古学的に特異なことは、これからも変わらないだろう。

    References:Medicine_Wheel / mysteriousuniverse/ written by konohazuku / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52295325.html
     

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    某漫画で有名な「石仮面」。その人類最古のルーツはここにありました。詳細は以下から。

    1983年、旧石器時代を専門とするイスラエルの考古学者オフェル・バー・ヨセフ博士はエルサレムの東、死海の近くのソドム山の北西にあるユダヤ砂漠のナハルヘマール洞窟で発掘作業を行いました。

    博士らはここで縄で編んだバスケットや木製のビーズ、貝殻やナイフ形石器、地瀝青で飾られた骨や人間の頭蓋骨から掘られた人形、そして儀式に使われたと思われる刺繍された織物を発見しました。

    これにくわえ、博士らが発見したのはおよそ9000年前に作られたとみられる2つの「石仮面」でした。この石仮面には、乾燥した気候のおかげで人間のものと思われる毛の塊が数千年に渡って張り付いて保存されていました。


    この場所からは新石器時代のものとも割れる仮面も出土しています。これらは狩猟採集生活から、現在のエルサレム付近で農業へと生活形態を変えたばかりの人々によって掘られたものと考えられています。

    石仮面は楕円形の輪郭に大きな眼窩と歯の生えた口を備えています。いずれも古代に彩色されたとみられますが、顔料が残っていたのはひとつのみでした。

    またそれぞれの顔は個性的で、特定の個人を模ったものと考えられています。老人のように見えるもの、若者のように見えるものなど様々で、中にはペンダントのような小さなものも。


    紀元前7000年という気が遠くなるほどの昔、彼らは何を思いながらこの石仮面を彫り上げたのでしょうか。

    【9000年前に作られた「石仮面」、旧石器時代から見つめるその不気味な眼差し】を全て見る

    9000年前に作られた「石仮面」、旧石器時代から見つめるその不気味な眼差し


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    未開封の古代エジプトの棺を発見


     エジプト観光考古学省によれば、古代エジプトネクロポリス(埋葬地)だったサッカラで、2500年前の棺が少なくとも13基発見されたそうだ。

     地下11メートルの竪坑墓に埋葬されていたそれは、奇妙なことに積み重ねられた状態で安置されていた。

     素晴らしいのは発見された時点で棺は完璧に密閉されていたことだ。つまり埋葬されてから2500年間、盗掘者によって荒らされることなく、当時の状態を今に伝えているということだ。

     保存状態は良好で、中には当時の色がそのまま残されている棺もあるそうだ。

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    Discovery of a deep burial well with more than 13 human coffins closed for more than 2,500 years

    古代エジプトのネクロポリス

     カイロから南に30キロ離れたサッカラは、かつて古代エジプトの首都メンフィスネクロポリス(埋葬地)だった場所だ。

     色鮮やかな碑文が描かれた数百もの王家の墓が見つかっており、地上にはピラミッドや神殿といった神に捧げる巨石モニュメントが点在する。

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    今回発見された棺の1つ image by:Egyptian Ministry of Tourism and Antiquities

     エジプト初期王朝の遺跡からローマ属州時代の遺跡までが存在するエジプト考古学にとってはもっとも重要な地で、1979年にはユネスコ世界遺産に登録されている。

    数々のおどろくべき発見

     もっとも重要と言われるだけあって、この地では数々のおどろくべき大発見がなされている。

     たとえば、昨年は発見された「クウィ(Khuwy)」という人物の墓は、壁面全体に色鮮やかな壁画がほどこされた壮麗なものだった(関連記事)。この人物は、エジプト第5王朝(紀元前2498~紀元前2345年頃)のファラオ、ジェドカラー王に使えた高官だと考えられている。

     2018年には、やはりエジプト第5王朝のネフェリルカラー王に仕えた神官の墓が見つかった。この人物の名は「ワフティ(Wahtye)」といい、生前は「神聖な検査官」として知られていたようだ。彼の墓からは人や神々をかたどった55体の像も見つかっている。

     ほかにも365体のウシャブティ(小型の人形の副葬品。それぞれが1日を表す)や、木製のオベリスクに囲まれた創造神プタハの木像、数百体にも及ぶ動物のミイラ(ワニ、コブラ、トリ、ネコなど)など、近年だけでもこれだけの発見がある。

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    まだまだ棺が隠されている可能性


     2019年にはルクソールの墓地遺跡アル・アサシフで木棺30基が発掘された。一度にこれほどの棺が発見されたのは100年ぶりのことで、こちらも世紀の大発見と話題になったのだが、今回の見つかった木棺の数もそれに負けていない。しかも木棺はまだまだ隠されている可能性があるとのこと。

     棺のほか、壁龕が3つ発見されている。もし副葬品などが見つかれば、埋葬された人物の身元や地位、さらには古代エジプトの埋葬の習慣についてうかがい知る手がかりになることだろう。

    References:ancient-origins. / sciencealert./ written by hiroching / edited by parumo

    全文をカラパイアで読む:
    http://karapaia.com/archives/52294655.html
     

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    日本の未来を見据えていた12人(第9回)「源頼朝

    JBpressですべての写真や図表を見る

    (倉山 満:憲政史研究者)

     政治家に対してレクチャーをするときに慨嘆することが2つある。

     1つは「それをどうやって実現すればよいですか?」と逆質問された時だ。

     平成初頭くらいまでの政治家は「政局はわかるが政策はわからない」「あらゆる政策を政局と絡めてしか判断できない」と批判され、故に政治改革が叫ばれた。

     ところが、今や「政局がわからないので、政策をどう実行すればいいかわからない」政治家だらけなのである。

     2つは、あまりに理解力が低くて、「そこから説明しなければならないのか!?」と絶叫したくなる場合である。

     この2つ、一度や二度ではない。政治家は、すっかり劣化してしまった。

     確かに現実は「よりマシな政治」を求めるしかない。しかし、モノには限度と合格最低点がある。

     かつて自民党は、「日米安保体制と資本主義に賛成ならば、思想もそれ以外の政策も問わない」と豪語しただけあって、他に問題が多々存在したが、日本を平和な経済大国にした。

     その2つも、田中角栄が日中友好を推進したので、いい加減になった。米中友好のうちは良いが、アメリカ共産主義国の中国を敵視するようになり、自民党が政権与党に居座る日本は、国際社会で右往左往するだけの存在となった。

     そして高度経済成長もバブルも終わり、長い慢性的不況が訪れた。8年も総理大臣を務めた男が、景気回復すら成し遂げられなかった。確かに安倍晋三内閣は緩やかな景気回復を実行したが、政権末期にはそれも怪しくなった。それでも阪神大震災東日本大震災の時のような不手際はなく災害対策だけはできるかと思われたが、コロナ対策の惨状は御覧の通りである。

     日本人は、どこまで政治の劣化に我慢しなければならないのか? とっくに合格最低点を下回り、年を経るごとに進む政治の劣化に対し、いつまで「よりマシな政治」に甘んじなければならないのか?

    暗殺の危機のなか先手を打って挙兵

     約850年前も、日本人は同じように思っていた。

    「いつまで我慢しなければならないのか?」と。

     そんな時に救世主の如く現れたのが、源頼朝である。

     頼朝の名を聞いたことがない日本人はいないだろう。だが、頼朝がいかに偉大な人物であるかを知っている日本人はどれほどいるだろうか。

     源頼朝は、世界に模範となる日本人である。

     あるべき政治家の姿として、頼朝の生涯を追う。

     久安3年(1147年)、頼朝は中級貴族の源義朝の嫡男として生まれた。三男だったが、母の身分が高かったので、嫡男とされた。

     当時の政界では、実力のある上皇が皇室の家長として権勢を振るった。「治天の君」である。他の上皇や有力貴族は権力に取り入ろうと陰湿な派閥抗争を繰り広げていた。天皇は「皇太子の如し」と扱われ、栄華を誇った藤原摂関家もいかに治天の君に取り入るかに腐心していた。そうした朝廷上層部の最下層に源氏と平氏が存在し、有力貴族に犬のように使われていた。

     保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御し、治天の君の座を巡り崇徳上皇後白河天皇が争った。結果、源義朝と平清盛がついた後白河陣営が勝利した。だが、義朝の親族はほとんどが崇徳陣営につき、源氏の勢力は衰退する。保元の乱である。

     平治元年(1159年)、義朝は後白河上皇に謀反を起こし破れる。父は逃亡中に家臣に裏切られ、騙し討ちで殺された。既に公家として任官していた13歳の頼朝は初陣として参加したが、何もできずに捕縛された。この時、清盛の慈悲で伊豆への島流しで許された。

     平治の乱以後、中央政界では平清盛の権勢は他を圧し、遂には後白河法皇をも幽閉する。権力と富を独占する平家への不満は全国に広がった。これに真っ先に反旗を翻したのが、以仁王(もちひとおう)である。

     治承4年(1180年)、以仁王は平家打倒の檄文を全国に飛ばし、頼朝にも届く。実は頼朝は、あまり政治に関心が無かったらしい。ところが、頼朝は清盛の宿敵、義朝の遺児であり、武士の中では清盛とともに最も高貴な出である。貴種の頼朝に全国の武士の期待が集まり、平家も警戒する。頼朝は暗殺の危険を感じ取り、先手を打って挙兵した。

     頼朝は関東の武士に檄を飛ばし、悪戦苦闘の末に勢力を結集し、鎌倉に入る。

     頼朝討伐の為に西国から進撃してきた平家軍を、富士川で迎撃。圧勝した。富士川の戦いである。

     頼朝はすぐに進撃しようとしたが、武士団の反対で断念。勢力を整える為に鎌倉に戻る。仮に追撃しても、おそらく補給が続かなかっただろう。これが賢明な選択となった。

     関東で戦力を整えている間に、異母弟の義経をはじめ、兵士に不満な武士が参集してきた。頼朝は侍所を設置するなど、軍事政権の実を整えていく。全国で動乱が勃発し、いつの間にか、中央政権の平家に継ぐ日本第二の実力を保持していた。

     飢饉の間は平家と休戦し関東の地盤を固める頼朝に代わり、京都へ進撃したのが同じ源氏の源義仲である。だが義仲は軍事能力こそ高かったが、政治は無能だった。朝廷は頼朝に義仲追討を命じる始末だった。頼朝は朝廷の上洛要請を断り、義経らを差し向けて義仲を誅殺する。

    なぜ武士を組織化できたのか

     さて、なぜ全国の武士は平家に不満を持っていたのか?

     長い藤原氏の摂関政治、ついで院政の時代、武士は貴族の犬として扱われた。それでも、その統治に満足すればそれだけで不満は持たない。

     武士は1つの所領の為に命懸けで戦う。すなわち、「一所懸命」である。一族の所領を守れるならば、むしろ喜んで貴族に犬のように仕える。

     だが、朝廷の裁判が公正を失い、自分の所領が守れないとしたらどうするか。武器を持って戦う。法が頼れない以上、自力救済を行う。

     そこに頼朝は「自分に従えば所領を守る」と公約した。「だから、自分を武家の棟梁として押し立てよ」と命じたのである。関東の武士たちは、貴種の頼朝を自分たちの棟梁として仰いだ。

     頼朝はこうして自分に従う武士を組織化し、強大な平家政権、そして朝廷そのものと戦う態勢を整えたのだ。

    政局と社会構造を熟知し、日本一の実力者に

     文治元年(1185年)、義経は平家を一気に滅ぼしてしまう。義経は2つの意味で愚かだった。

     1つは、大失態を犯している。平家が逃亡の際に安徳天皇を連れ三種の神器を持ち出し、一時的に京都の後鳥羽天皇と2人の天皇が存在する事態となった。南北朝ならぬ、「東西朝」である。この事態は2年間続いた。そして事もあろうに安徳天皇は入水、あげくに三種の神器の1つである草薙剣は、遂に壇ノ浦に沈んで浮かんでこなかった。

     もう1つは、義経は頼朝の構想をまったく理解していなかった。頼朝の目的は、朝廷に対し武士の自立を認めさせることである。外国のように朝廷に取って代わるなど考えていない。大昔の平将門は勝手に「新皇」を名乗り日本中の反感を買ったが、頼朝はそのような愚を避けた。

     平家討伐を名目にゆっくり軍を進め、各地の裁判権を掌握する。朝廷も平氏も政権担当能力を失い、公平な裁判を行っていない。だから軍事進駐して占領地に秩序をもたらし、それを日本中に広げる。これが頼朝の構想だったので、何も考えずに平家討伐に邁進する義経は邪魔でしかなかった。頼朝は仕方なく義経を謀反人認定し、全国に追捕の手を伸ばし、勢力を拡大する。

     頼朝は当時の政局と社会構造を熟知し、何をすべきかの現実的政策を実行した。全国に守護地頭を設置した。つまり、頼朝は武士が有事の募兵や納税などの義務を果たす代わりに、所領を安堵し裁判の公正を約束した。千年以上も日本中に根を張る朝廷の勢力はまだまだ侮りがたかったが、頼朝は誰もが認める日本一の実力者となった。

     そして実質を完成させるのは、形式である。頼朝は最も重要な形式にこだわった。

     建久3年(1192年)、頼朝は征夷大将軍に任じられる。

     征夷大将軍は、有事に戦場において天皇に代わり統帥権を行使する職である。これを兵馬の大権と呼ぶ。征夷大将軍のいる場所を「幕府」と呼ぶ。征夷大将軍も幕府も臨時の職である。それを常設にするとは、治天の君に代わり最高権力を保持することを認めたことである。

     以後約700年間、慶応3年(1867年)に徳川慶喜征夷大将軍を返上し江戸幕府が滅びるまで、武家政治が続く。

    無駄な戦乱を回避した「日本の発明品」

     これは世界史の奇跡である。なぜなら「革命なき革命」だからである。

     革命には2つの意味がある。1つは、君主制度を転覆すること。もう1つは、社会構造を根本的に変革すること。頼朝は、皇室を滅ぼすことなく、社会構造を根本的に変革した。

     自分が武力で皇室に取って代われば、力を無くしたときに他の誰かが取って代わる。日本以外のほとんどすべての国で、この意味での革命が発生し、ほぼ例外なく地獄のような苦しみがもたらされた。頼朝は朝廷を武力で脅迫して政治的要求を呑ませることもしばしばだったが、そこに留めた。後世の権力者も頼朝を模範とした。その方が自分や子孫の身が安全であり、秩序が混乱しないと身を以てわからせたのである。

     そして朝廷の秩序を壊さず、天皇の権威の下で別の政府体系を打ち立てた。征夷大将軍のような官職を与えられることは、天皇の権威を前提としている。その後の700年間、多くの混乱が存在したが、そのすべてを朝廷は乗り切った。政治の最終的勝利者を認定する役割が、朝廷に残ったからである。

     我が国の歴史に君主制を廃する革命の悲劇はなく、社会制度の矛盾がゆっくり解決されていった。こうした体系を「幕府」と呼ぶ。ちなみに昔は「Military Government」などと訳していたが、今や定訳は「Bakuhu」である。日本にしか無い概念だからである。

     君主である天皇は権威として君臨し、実質的な最高権力は平時の司法権と有事の統帥権を掌握する征夷大将軍が行使する。もし将軍権力が揺らいだ場合は、政治の決着がついた段階で天皇が勝者を認定する。日本の発明品である。この発明品によって、どれほどの無駄な戦乱が回避されたであろうか。

     幕府を考え出したのは頼朝のブレーン集団であり、その筆頭は大江広元である。当時最高の有識者であった広元の考えを頼朝がどれほど理解できたかはわからない。ただ、少なくとも「そこからか!?」と広元を慨嘆させることはあり得なかった。頼朝自身も十分な識見を持っているからこそ、広元のような人物の提言を採用できるのである。

     そして何より、政治家の最大の仕事は人の心を掴むことである。人心を掴まねば政局には勝てないし、政策は実行できない。

     源頼朝は、日本人が誇るべき偉大な政治家である。

    [もっと知りたい!続けてお読みください →]  吉野作造が許せなかった「正論が通らない」国の末路

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     日本は明治維新の成功をきっかけに近代国家へと歩んでいくが、中国の洋務運動はそこまで国を変えるきっかけにはならなかった。それはなぜだろうか。中国メディアの百家号はこのほど、日本の明治維新が中国の洋務運動と違って成功したのは「西洋の強国が日本の成功を許したおかげだ」と主張する記事を掲載した。

     記事は、当時の西洋列強は日本と中国に対する扱いが違ったと主張。日本に対しては明治維新が成功するのを「黙認した」にも関わらず、中国の洋務運動の成功は「許さなかった」そうだ。これはどういうことだろうか。

     記事は、西洋列強の「日本と中国に対するイメージに違いがあった」ことを理由の1つとしている。中国は当時、ベールに包まれた謎の文明国家で、宝の国というイメージがあり、中国が強くなると列強が中国へ侵略するのに不都合になると考えたと説明した。それに対して日本は、小さな島国で土壌も悪く、放っておいてよいと判断したのだろうと分析。そのため、後に日清戦争で日本が勝利したことに西洋列強は大変驚いたとしている。

     別の理由は、「日本が西洋列強のターゲットではなかったこと」。列強の目的は「中国からうまみを得ること」であり、中国のなかで列強同士が牽制し合っていたと論じた。例えば、不凍港を欲したロシアの南下をけん制するのに、明治維新後の日本は列強にとって都合の良い道具となり、そのおかげで列強はより多くの利益を得ることができたのだという。

     記事は、西洋に妨害されなかったために日本の明治維新が成功したように論じているが、幕末明治期の日本人は、西洋列強の属国になる恐れを抱え、国家存亡の危機に立ち向かったことを原動力に、西洋列強による侵略を阻止できたといえるだろう。この危機感が中国には全体的に欠如していたことが、日本との大きな違いだったのではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)

    日本の明治維新が成功したのはなぜなのか! それは「西洋の強国が日本の成功を許したおかげだ」=中国


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