(吉田 典史:ジャーナリスト

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 第2次世界大戦を終え、75年目を迎えた。この時期は、戦争と平和をテーマにした報道が増える。国や自治体、団体の行事も多い。確かに大切ではあるのだが、実際は日頃から深く考える日本人は少ないだろう。だが、最近は日本の国境付近で緊張が生じ、平和とは何か、と考えざるを得ない状況になりつつある。

 今回は、国と国の争いをリアルに捉えるために、ある親子を取り上げたい。2020年6月21日西日本新聞社会面に掲載された記事に、この父と子が載っていた。1945年、終戦直後に戦争犯罪人として収監され、いったんは死刑判決となりながら、釈放された旧軍人(父)とその息子(三男)である。

 筆者は以前から、戦時中に墜落したB29の搭乗員の行方に関心があった。戦争の極限状態を考えるうえで、意味の深い素材であると思うからだ。それだけに、西日本新聞の記事に引き込まれた。この息子に急いで取材を依頼した。読者諸氏は、父子の人生から何を感じるだろう。

肯定や否定の考えはなく、事実として淡々と受け止めていく

「父は、懺悔の思いで祈っていたのではないと思います。あの日(1945年6月20日)、自分が(米軍の爆撃機)B29の飛行士や搭乗員たち(4人)を斬首しなくとも、何らかの形で(日本軍に)処刑される運命だった。前日にB29による空襲で母を殺された父が、墜落した機の搭乗員を斬首すると上官らに名乗り出ました。

 その時に、父と4人の間に因果が生まれたのだと父は思っていたのではないでしょうか。それは仏教で言うところの、業(ごう)でありましょう。 

 終戦後、父は捕虜を殺害したとして、GHQ連合国軍最高司令官総司令部)の指示で来た警察に捕まり、BC級戦犯(戦争犯罪人)となった。死刑判決となるものの、減刑となり、東京の巣鴨(プリズン)を(1956年に)出所した。その後、自宅の敷地内に4体の地蔵を建てました。おそらく、4人を弔うものだったのでしょうね。

 淡々とした思いで時々、地蔵に手を合わせていたのだと思います。後悔や反省、懺悔ではなかったのでしょう。その意味での罪の意識はなかったのだろうと思います。父は(母を殺されたことの)私憤で斬首したことは責められるべきだろうが、行為そのものへの罪は感じていなかったのではないでしょうか。

 私も時折、地蔵の前で手を合わせますが、懺悔ではありません。かつてこういうことがあったのだな、といった思いです。父と私を取材する新聞などは、“搭乗員に懺悔をする父子”と報じたいのかもしれませんね。父や私に、その考えはありませんよ。毎日、拝むこともしません。私たちには斬首の一件を肯定や否定する考えはなく、事実として淡々と受け止めていくといった思いです」

 文具品などを販売する株式会社TOHJI(とうじ)」(福岡市)の会長、冬至克也さん(66歳)が答える。陸軍の軍人であった父、堅太郎氏(1983年、68歳で死去)は戦時中、九州方面を管轄する西部軍に勤務していた。階級は終戦時、主計大尉だった。

当時の日本人の平均的な感情や思いを超えるものではなかった

 1945年6月19日から20日にかけて、米軍は爆撃機B29による大規模な空襲を行った。いわゆる「福岡大空襲」である。総務省ホームページの「福岡市における戦災の状況」にこういう記述がある。

「昭和20(1945)年6月19日マリアナ基地を発進したB29は、九州の行政、経済の中心である福岡市の工場、港湾、鉄道などを攻撃目標として、九州南部より分散北上し、有明海から佐賀県、背振山地を越えて西南部方面から本市上空に侵入した。221機といわれるB29の反復攻撃は、午後11時10分ごろから翌20日の午前1時ごろまで続き、約2時間にわたる空襲で、市の繁華街をはじめ、主要な地域を殆ど焦土と化した」

 同べージには、「被災人口6万599人を数え、死者902人、負傷者1078人、行方不明244人を出した」とある。死者の中に、堅太郎氏の母(実の母親)がいた。堅太郎氏は行方がわからない母を見つけ出したが、亡くなっていた。

 冬至克也さんが、父が残した手記「巣鴨日記」(1946年8月~52年10月の6年間ほぼ毎日書き込まれている)や生前、家族や知人に語っていたことをもとに説明する。

「父の母の遺体は、背中に炎の後があったものの、顔は比較的きれいで、焼夷弾による煙で窒息死にいたったようです。

 父は母を見つけた後、棺をつくるために部隊に戻ったのですが、人だかりができていたので、見に行ったのです。(撃墜されたか、もしくは故障し)墜落した機の搭乗員たちが、囚われの身となっていました。この機は福岡大空襲で墜落したのではなく、以前、他所に墜落した機です。その搭乗員たちが福岡に収監されていたのです。

 処刑が行われる直前だったようで、母親が殺害された以上、自分は飛行士や搭乗員を処刑するに値する人間だと思い、斬首に志願したそうです。それが認められ、軍刀を借りました。一人を斬首した後、『次もいけ!』とその場にいた上官から言われたのです。

 結果として、4人を斬首しました。そこには、軍の参謀や法務部長も立ち会っていたそうです。父としては、軍の裁判である軍法会議を経て処刑が決まったと思っていたようです。その場の状況からして疑うまでもないと感じたのでしょう。

 父の行為は、当時の日本人の平均的な感情や思いを超えるものではなかったのではないか、と私は思います。実際、米軍の飛行士や搭乗員の処刑は各地で行われていました。軍人だけでなく、地元の住民らに殺されたケースもあると聞きます。逆に、米軍の搭乗員らが(墜落後)住民を殺すケースもあったようです。戦闘員非戦闘員の区別なく、殺し合いをしていたのです。戦争は、最後はこのようなものになるのではないでしょうか。

 父は(1945年の)終戦直後に、斬首をした処刑は軍法会議を経たうえでの判断ではなかったと聞かされました。当時、GHQに旧軍人が捕虜殺害・虐待の容疑などで次々と捕まっていると新聞が報じていました。自分も逮捕され、死刑になると確信したそうです」

発言をすることが、死刑になった戦犯への供養

 堅太郎氏は戦争犯罪者として逮捕され、巣鴨プリズンに収監された。横浜BC級戦犯裁判所の裁判(搭乗員斬首事件)では、1948年12月29日に「絞首刑」の判決を受けた。冬至克也さんが、話を続ける。

「一応は(被告である父に日本人の)弁護士がついていて、あなたは死刑判決になっても止むを得ない、と言われていたようです。裁判では、処刑の場にいた上官や父たちなど関係者の間で“命令があった”“命令ではない“と責任をなすりつけあう一幕があったそうです。そのためか、他の事件と比べると判決が確定するまでに時間がかかったのです。その間に、(1950年に)朝鮮戦争が勃発し、日本は(1951年に)主権が回復した。この時期にGHQの考えが、変わったのかもしれません。何がどうなるのか、わからないものですね」

 その後、減刑となり、1956年に釈放され、福岡に戻る。文具店の店主として経営を長年担った。家族に戦争や巣鴨プリズンにいた頃を積極的には語ることはなかった。折に触れ、たとえば、戦犯や巣鴨に関する報道やテレビドラマが放送された時などは詳細に語ったようだ。そのような時は懐かしそうに、ポジティブに語ることもあったという。当時から、地元の新聞社の取材には時々、応じた。自らが関わった斬首事件や戦犯であったことを淡々と語った。

「父は巣鴨で知り合った戦犯で、処刑された人のために、(社会に向けて)声を出そうとしていたのではないか、と思います。父は(巣鴨プリズンにいる)戦犯のほとんどが、自分は罪を犯していないと信じていた、と述懐しています。父もまた、自らを(刑事事件の)罪人とは思っていなかったでしょうね。あの裁判が戦勝国の敗戦国への復讐であり、見せしめのようなものだったのではないでしょうか。父はそれを心得えて、臆することなくしていたのだと思います。自分が発言をすることが、死刑になった戦犯の人への供養になると考えていたのではないでしょうか。

 息子である私がこうして発言するのも、そんな父の姿を見ているからです。私の兄は発言をあまりしたがりません。そのあたりは、実の兄弟でも温度差があるのです。

 父は、あの戦争で日本はアジアの国の人たちに相当な迷惑をかけたとして、(店を経営する一方で)アジアからの留学生の支援を積極的にしました。政治に対して右派的な考えは、まったく持っていませんでした。保守や革新といった概念を持っている様子はありませんでした。そのような言葉さえ聞いたことがありません。政治的思想はなく、仏教に対する信仰心からくる価値観に根付いた判断をしていたものと思います。

 愛国心については、周囲の国から愛される国にするのが、(その国の人にとっての)愛国心とも語っていました。愛は無償のもので、見返りを期待するものではない。下から上への愛は封建的なもの、上から下への愛は常に無償のものであるべきとも語っていました。私が影響を受けた言葉であり、子どもたちにもこうでありたいと思っています。難しいことですが・・・」

戦争にしないためには、理性と知性が必要

 終戦から75年を迎え、日本を取り巻く国際環境は変わりつつある。たとえば、中国が尖閣諸島を脅かす行為を繰り返している。冬至克也さんも、その動きを懸念する。

「私は、外交としての政治については語らない方がいいという気持ちがあるのです。それでも、国民に危機が及ぶことが考えられる場合などは主権者として語らなければいけないといった思いもあります。今、日本が置かれた状況はキナ臭くなっています。(国内ではかつては)戦争をしないといった制度や態勢になっていました。それが、次第に変わろうとしています。(外国との関係では)ある日、日本の島に外国の軍艦が来て、軍が上陸する事態にならない、とは言えない状況になっています。

 個人でも正当防衛は、認められます。国でも専守防衛のもと、領土を守ることは必要です。降りかかる火の粉は、振り払わないといけない。それを(局地的な)戦闘で終わらせるのか、それとも戦争にしてしまうのかを判断するのは為政者の考えによるものです。それを国民が煽ったりするものではないですね。

 戦前、日本が戦争をしたのは当時の国際情勢にも一因はあるのでしょう。為政者やマスメディアプロパガンダ(宣伝)、軍が求めたものでもあるのでしょうが、国民も求めたのではないか、と私は思っています。

 日米があれほどに憎しみ合っていたのに、今やとても親しい関係になりました。なぜ、激しい対立を防ぐことができなかったのだろう、と思います。結果論かもしれませんが、あの戦争をせずに今日の関係を築き上げることはできなかったのかなと疑問が湧いてきます。

 現在の国際情勢を見ていると、人類は戦争をしたがるのかもしれない、戦争する動物なのかな、とも思います。もちろん、戦争は否定されるべきと私は考えています。戦争をしないためには、理性と知性が必要で、それを育むのが教育です。理性と知性があれば、国やメディア、社会、世論が戦争をする方向に導こうとする時に、自分が引っ張られないようにすることができると思うのです」

取材を終えて

 筆者が第2次世界大戦の日本の戦争をテーマに初めて取材をしたのが、27歳だった1995年。当時、戦争の経験者はほとんどが50代以上だった。最近、その中に他界する人が増えてきた。当事者からじかに聞く機会は減りつつあるが、家族から伺うことはできる。

 95年当時と比べると、北東アジアの情勢は変わり果てた。今、あらためて報じたいと思った。その際、国の対立、紛争、戦争を情緒的、心情的、感覚的に捉え、政治思想で言うところの「右」「左」とレッテル貼りをする報道を、筆者はかねてから否定している。今回は、事実を積み重ねる中で戦争の一断面を浮き彫りにしたかった。それが、死者や遺族、犠牲者が多数現れ、国や社会の後遺症が残り続ける戦争を報じる者の責任と考えているからだ。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  戦後75年、このままでいいのか日本の「戦争総括」

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(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

米軍も、投降した日本兵に対する惨殺はあったようですし、結局は敗戦したから罪に問われただけ。悪い事をしたからしょうがないと迎合した方が精神衛生上はいいでしょうけど日本の将来を思うなら戦争をしないことより敗戦国にならないことを考えた方がいい。侵略されてその国の一部になったら自動的に侵略国国民になりますよw


日本軍「都市爆撃は戦争法違反だ!」米軍「対中無差別爆撃の報復だから問題無し!」日本軍「んじゃ捕まえた搭乗員は戦犯として処刑するぞ!」米軍「やれるもんならやってみろ!」だったからな。そして犠牲にされるのは何時も、兵士や国民なんだよ……。


いや、民間人に空襲する事も戦犯だぞ。戦争とはあくまで兵隊同士の行動を言うんだからな。攻撃力を持たざる民間人を攻撃したって、火薬と弾丸の無駄だ。非効率的、非合理的。つまり南京虐殺などない。やる意味、動機がない。


無差別爆撃は禁止する条約なんてなかったろう?あったというなら教えてくれ、ハーグ陸戦条約では防御されてない都市への攻撃は禁止されているが、軍が駐留し対空火器を備えた都市はこの限りではない、下手すると不特定の目標を狙った風船爆弾の方が戦争犯罪に該当しかねないぞ


そのB29のパイロットは非戦闘員の住民を大量に*た戦争犯罪人なんですけどね。


空襲とか原爆とか飛行機で追い回されて撃たれるとか、民間人が攻撃されている話を耳タコになるまで聞かされたが、あれって戦争だから当たり前で仕方ないんじゃなくて、ふつうにアメリカ人による犯罪なんだとネットで初めて知った時の衝撃よ


アメリカ・オーストラリア軍は日本人捕虜は降伏勧告をしないので、戦争中期までは、要塞戦を除き捕虜を取らなかった。よしんば、勧告をしても捕虜にはせず、*て、人間狩りのお土産として、大鍋で煮込んだ髑髏を500ドルで売り買いしていた(事実)。当時の日本人に対する差別は酷かった。都市爆撃は民間人虐殺で状況次第なら、死刑適用。だから、この人は悩む必要はなかったかも。


QTA>戦争のルールにのっとるなら兵士はあくまで「凶器」であって犯罪者はその命令を出した司令部


いや、確か気球爆撃は禁止されていたが航空機爆撃は禁止されてなかったはず


>エフィアまともな感性を持った人なら、経緯はどうあれ人を*たら思い悩むもの。人を*ておいて思い悩まない人はテロリストやサイコパスの同類。


この本人は単に上官の命令に応じて処刑を執行しただけじゃね?


最初から民間人を標的に焼く様な卑怯者は今の時代でも同じ状態になれば普通にリンチさるるだろそりゃ。


無差別爆撃なら日本側もやってるての、ドイツとイギリスもお互いに対してやってることだから人種差別なんて関係ない、反米扇動記事に嬉々として便乗する莫迦の多い事よ、中共大喜びだぜ


まぁルメイたちをどう思いますかっていわれりゃ腹ただしくはなるし、自国のためだろうがそんなことするなんて間違ってる でもそれと今の米国をどう思うかは話が別だよ


モッチー2643さん >「上官の命令とはいえ、人を『不法・不必要』に殺害してしまった」ということを悩む必要がなかったかもしれないと言いたかったのです。戦争なら、**れで、勝ち負け関係無く戦場にいた人は、人を傷付けたことに悩むものですし、殺人なら国を守る大義名分があろうと辛く人生にのし掛かります。戦争も戦争を起こさせる人も、もう無いようにしないといけません


戦争をしないためには理性も知性も必要だが、それは両者に必要なこと。味方陣営がどんなに上手くやったとしても相手陣営がひたすらに傲慢で愚かならどうにもならないんだよ。日本との戦争中に負けそうになって街に逃げ込んで自分達で盾にしたのを、無差別爆撃だと連合に泣きつくような連中であるとかな。


いや、最初から民家を焼く目的で専用に爆弾を開発してるんだからどう見ても確信犯だろ。