19世紀にイギリス議会政治の基礎を作り、安倍首相と同じく首相として2回登板したディズレーリに「我々が世論と呼ぶところのものは実際は公衆の感情のことだ」という言葉がある。
「文春砲」の放火を浴びた黒川検事長の辞任と検事総長定年延長を盛り込んだ法案の先送りで、黒川氏の定年延長問題は棚上げされた。
安倍政権は、官邸内のみならず、内閣法制局、日銀総裁、NHK経営委員などの人事に介入することで、執行能力を高めようとしてきた経緯がある。それだけに、この得意としてきた手法が今回、通用しなくなったことは、政権の行方を暗示しているのかもしれない。
安倍政権のこうした常套手段を封じたのは、ツイッター世論だと報道されてきた。しかし、実際には週刊文春による政権への取材は5月17日になされ、法案先送りが表明されたのが18日だったから、ツイッター世論ではなく、やはり文春砲が決め手だった可能性もある。
新型コロナの拡大は新しい民主主義の予兆か?定年延長に反対するツイッター世論は、周知のように1人の女性が5月8日に「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグを付けて抗議をしたことに遡る。その2日後に470万余りもの投稿とリツイートがあり、その後、芸能人、セレブ、歌手、俳優などの賛同を集めたこともあって、1000万近くのハッシュタグへと膨れ上がった。
東京大学大学院の鳥海不二夫准教授のツイッター分析によれば、つぶやきはユニーク投稿によるものが大半で、BOTによる拡散の痕跡は見られないとしている。改正案反対の声は、この限りで本当のものだった。
外出禁止を受けて、ロシアではネット上の地図でプーチン政権に反対する、コメント付きのバーチャル・デモが展開され、依然として民主化運動が抑圧されている香港の活動家たちは「あつまれどうぶつの森」で抗議運動を行っている。
こうした展開を受けて、ネットを介した「オンライン・デモ」の可能性が日本でも開けつつあるのではないかという指摘も見られるようになった。新型コロナウイルスの拡大は「ハッシュタグ」、「オンライン」、「バーチャル」など、新しい抗議運動や民主主義の予兆でもあるのか。
過去のネット運動が決して「バーチャル」じゃない理由ただ、ネット社会の進展とともに、新しいデモや民主主義の輪郭はすでに現れていた。簡単に振り返ってみよう。
その最初のケースは、2006年のベラルーシの大統領選のやり直しを求める抗議運動だったとされる。不正選挙が疑われたこの選挙で、実際のデモ活動が排除されたため、抗議者たちは普及していたプラットフォーム「ライヴジャーナル」を利用して、デモの組織や運動の展開を練った。
こうした形式は、2009年にやはり議会選挙の不正疑惑がもたれたモルドバ共和国、さらに同年の大統領選結果に対するイランでの抗議運動がツイッターで拡散されたことで広がりをみせる。モルドバやイランの事例は「ツイッター革命」として欧米メディアで広く報道された。
さらに2010年、チュニジアに端を発し、中東諸国での多くの政権転覆につながった「アラブの春」では、フェイスブックを利用した抗議運動が盛んになり、これはそのまま2011年のアメリカでの「オキュパイ・ウォールストリート運動」へと波及していく。ウォール街を占拠し、「我々は99%だ」のスローガンで知られることになったこの運動は、ツイッター、フェイスブック、ユーチューブといったSNSを通じて、一大ムーブメントを先進国でも引き起こした。
こうしてみると、過去のオンライン上のデモや民主的な抗議運動は、決してバーチャルなものではなく、オフラインかつ物理的な実践と組み合わさって、初めて威力を持ったことがわかる。
検事長定年延長問題=ツイッター世論の勝利はミスリード社会運動論を専門とする伊藤昌亮は、SNSが抗議運動に持った影響力を分析して、ネットがあったから可能になったというよりも、ネットによる相互方向性が生じ、デモや抗議の「動員/発信する者」と「動員される/参加する者」との間の垣根が融合し、それが「集合的な表現」となったことに新しさを見いだしている(『デモのメディア論』筑摩書房)。
先の「#検察庁法改正案に抗議します」という最初のツイートをした女性は、安倍首相演説会での北海道警察によるヤジ排除報道にインスパイアされたという。特定の抗議運動が、別の異なる抗議運動へと拡散していくことこそ、新しい時代の抗議運動の特徴だ。
ただし、検事長定年延長問題では、世論調査でも以前から反対意見が大多数を占めていた。朝日新聞の世論調査では、3月の時点で定年延長を問題とする意見は55%、問題ないとするのが24%、ツイッターが拡散された5月になって反対64%、賛成15%と、反対が若干のプラスになったに過ぎない。
つまり、そもそも定年延長に反対する意見が大多数を占めていたところに、その世論の一部がツイッターに表れて「集合的な表現」をとっただけなのだ。ツイッター世論の勝利とするのは、コロナ禍で政治がメディアをますます気にするようになり、メディアがネタに欠いてネット世論にますます依存するようになった状況下でのミスリードに過ぎない。
政権批判への「非難」「称賛」どちらもおかしい理由もちろん、1人の微細な声が大きなムーブメントに波及的に広がっていくことで社会が変わることはある。安保法制反対の各地でのデモを冷笑する声があったが、これに批評家の柄谷行人は「デモをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、デモをすることによって、日本の社会は、人がデモをする社会に変わるから」と反論した。
その顰に倣えば「ツイッターのつぶやきで社会を変えることはできる。なぜならツイッターで社会を変えようとする人が出てくるから」というべきだろう。
だから、俳優であろうが、歌手であろうが、あるいは未成年であろうが、主権者である限り、どんな職業や属性であっても、時の政権の政策や方針に反対の声をあげることは批判されるべきではない。逆にいえば、それが勇気の証であるとか、新しい民意のあり方だとか称賛される必要もないはずだ。
メディアの「民主化」が引き起こした痛ましい事件ネットと世論の関係においては、「分断」と「民主化」という、相反する2つの特徴が指摘されてきた。ひとつは、ネットは「集団極化」を引き起こすメディアであることだ。
ネットと社会の分断について早くから警鐘を鳴らした憲法学者のキャス・サンスティーンは、見たいものだけを際限なく見させてくれるネットを通じて、人々の政治意識や行動規範がよりラディカルなものになっていくとした(『インターネットは民主主義の敵か』毎日新聞社、『#リパブリック』勁草書房)。
サンスティーンが広めた「フィルターバブル」や「エコーチェンバー」といった言葉が指すように、ネットは所属や時空を越えることで特定の集団を形成しやすい。ゆえに、例えば、ネット選挙を重視していたオバマ陣営は2012年の選挙戦で、ビッグデータを用いて人種や居住地など、個人の属性に基づいた綿密な戦略を打ち立てて勝利を導いた。
このネットならではの特性は、フェイスブックなどが収集したビッグデータを用いた英EU離脱キャンペーンやトランプ大統領が当選した2016年選挙でも表れた。
もうひとつは、ネットは民主化のメディアでもあるということだ。それまで膨大な設備と人材を有し、編集権を持っていたマスメディアによる情報流通の寡占状態は、個人が発信するブログ、それらが結びつくSNS、様々な情報を統合するプラットフォーマーの出現でもって崩れつつある。各国の大統領や首相、タレントや芸能人のつぶやきが世論とダイレクトに結びつくことで、マスメディアはネット世論のフォロワーになり下がっている。
この「中抜き」現象によって、情報の取捨選択と発信は個人の手に譲り渡された。ただ、テレビという旧体制の権化のようなメディアが製作するリアリティ番組(その番組自体がネットに依存することを前提として作られていた)の出演者が自死に追いやられることになったのも、このメディアの民主化が引き起こした痛ましい事件だ。
新メディアの「分断」問題、1920年代から言われていたもっとも「分断」と「民主化」という現象は、ネットに限らず、メディアが本質的に持っている特性だ。1920年代の写真週刊誌の登場は、偏見や党派的な意識を助長すると指摘されていたし、戦後にはダイレクトメールを利用したマーケティングを応用した選挙キャンペーンが登場した。
また、ルターによる宗教革命とグーテンベルクの活版印刷によって、聖書が一般人のものとなった時から、カトリック教会の地位は低下していくことになった。つまり、ネット世論が提起するのは、「分断」と「民主化」という、社会で働く相矛盾する力学をどのように接合したらよいのかという、古くて新しい問題だ。
問題の解は、「分断」に対しては「熟議」を、「民主化」に対しては「反省」を対置することにおそらくあるのだろう。熟議とは、リツイートやコメント欄的な条件反射ではなく、リアルな場所での会話や討論を通じて、異なる意見と直に触れ、自らの意見が是正されたり修正されたりすることのリスクを背負う態度のことだ。
反省とは、自分の発言や意見がどのような結果をもたらすのかについての想像だ。外出自粛での巣ごもりが、こうしたきっかけを奪ったことが、今回のツイッター世論の盛り上がりに拍車をかけたことは容易に想像できる。
ツイッターで盛り上がった後にも考えたいこと日本は議院内閣制を採るが、ここでは立法府と行政府が融合しやすいため、3権分立というよりも2権分立的だ。しかも日本の最高裁は統治行為論に縛られ、違憲判決を出すのには及び腰だ。それゆえ、司法や法執行制度の独立性は今以上に強化されなければならず、そうした観点からも、確かに検察トップの定年延長は好ましいことではない。
さらに、検事総長の定年延長問題は、90年代以降、政治主導を強めてきた日本の政官関係、さらに日本の官僚機構のあり方そのものに関わる事柄であるばかりか、「人質司法」の問題が指摘され続けてきた検察官の権限や検事総長・裁判官の任命権は誰が持つべきか、といった民主主義の機能のあり方と深く関係する議論と地続きにある。
少なくとも、これらはネットを介した世論だけでは解答を見いだせない問題であることは確かなのだ。
(吉田 徹)
(出典 news.nicovideo.jp)
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